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漫画家としての挫折が『ガンダム』を生んだ? 安彦良和、一生に一度の持ち込みは伝説のコミック誌

マグミクス / 2024年7月3日 21時55分

漫画家としての挫折が『ガンダム』を生んだ? 安彦良和、一生に一度の持ち込みは伝説のコミック誌

■漫画家になる夢を一度は諦めた、安彦良和の挫折とは?

「漫画家になりたいという子供の頃の夢を遠回りしてかなえた。幸せな人生です。遠回りしたから長い足跡ができた」

 2024年6月現在、兵庫県立美術館で開催中の回顧展「描く人、安彦良和」内覧会での安彦良和(やすひこ よしかず)さんの言葉です。

 安彦さんは監督、アニメーター、イラストレーター、漫画家ほか幅広い分野で活躍していますが、その名が知れ渡ったのが『機動戦士ガンダム』などアニメ関係でした。そのため、作家としての原点が「漫画家」にあることを知っている人は多くはないかもしれません。

 実は安彦さんが漫画家になる夢を一時諦めて、アニメーターに専心するようになったのには、あるひとつの挫折がありました。

 安彦さんが生まれたのは、北海道紋別郡遠軽町。さまざまな取材でご自身が語っていますが相当な田舎町で、マンガを読むか絵を描くくらいしか楽しみがなかったそうです。幼少期に憧れた漫画家は、1955年に「少年少女冒険王」の付録で『織田信長』を描いた鈴木光明さんと、翌年に「少年」で『鉄人28号』の連載が始まった横山光輝さん。特に鈴木光明さんの影響は大きく、1956年に小学3年生となった安彦さんは上杉謙信と武田信玄の戦いを描いた『決戦川中島』なる処女作を描いたそうです。

 しかし中学時代にマンガ雑誌に投稿をしたものの色よい返事はもらえなかったためか、高校生になる頃には学校の教師を志すようになりました。それでも大学受験を控えた高校3年生の時、世界史の資料集に載っていた、スペイン内戦で少女がライフルを構えている写真に触発されて『遙かなるタホ河の流れ』なる歴史マンガを執筆していることから、漫画家への夢を完全に諦めたわけではないことが分かります。

 1966年、安彦良和さんは弘前大学に入学しますが、参加していた学生運動で逮捕されて、1970年に同学を退学。仕事を求めて上京し、印刷所のオペレーターを経て、手塚治虫さんが創設したアニメスタジオ「虫プロダクション」(以下、虫プロ)に養成所員として採用されました。

 先日、筆者がある雑誌で取材した際、安彦さんは当時の心境を次のように語っていました。

「昔、手塚さんが虫プロのことを描いた短編で、手塚さんが威張って歩いている横で、アニメーターがみんな同じ顔でずらっと並んでたんです。手塚さんもそれは自虐的な表現として描いているんだけど、俺はあの同じ顔をしたその他大勢になるんだと思った。手塚さんは作家だけど、アニメーターには個性なんかいらない。同時にそれくらいなら俺にも出来るだろうと」(※「月刊ガンダムエース」2024年7月号インタビューより)

 虫プロ入社前、アニメ制作の知識がなかった安彦さんにとって、原作となるマンガを描く漫画家は「作家」で、集団作業でそれをアニメ化するアニメーターは「工員」のような認識でした。アニメは、あくまで生活費を稼ぐための仕事で、作家としての創作活動ではなかったのです。

 それでも3か月の養成期間を終え、アニメーターとしての基礎を学び、実際の制作現場に入っての安彦さんの活躍は目まぐるしいものだったそうです。

 1972年の『ムーミン』のオープニングで、共に原画を務めた川尻善昭さんは、安彦さんが下描きもなしでスラスラと描くのを目の当たりにして「ものすごいプレッシャーでしたよ(笑)」と語っています。

 いよいよアニメーションの分野で、その才能を発揮し始めた安彦さんですが、作家としての創作、マンガへの想いは消えていませんでした。

 実は養成所時代、漫画家の岡田史子さんが同期にいたのです。岡田さんは、虫プロ商事の漫画雑誌「COM」でデビューし、先鋭的な作風ですでに天才少女漫画家として知られる存在でした。その岡田さんから生原稿を見せてもらううちに対抗心を刺激された安彦さんは、自身もまたマンガを描き、一生に一度の持ち込みを行います。

■安彦良和、一生に一度の「持ち込み」の結果が変えた運命

2024年に漫画家生活45周年を迎える安彦良和さんの人気作を集めたビジュアルガイド『安彦良和の歴史画報』(玄光社)

 持ち込んだ作品は、明治時代の農民による武装蜂起「秩父事件」を扱った短編『繭こもり』で、雑誌は「月刊漫画ガロ」(以下、ガロ)。創刊当時、白土三平さんの『カムイ伝』で大ヒットを巻き起こした日本初の青年マンガ雑誌で、「COM」のライバル誌でした。

 安彦さんが「ガロ」に持ち込んだ1973年頃、すでに『カムイ伝』も完結し、「ガロ」の勢いも鈍くなっている時期でした。発行元の青林堂の創業者でもある編集者、長井勝一さんが直接、原稿を読んでくれたそうです。

 その場では好感触だったようで「今月号は校了済みなので、後になります」と言われたので、安彦さんは次号もしくは次々号に掲載されるのかと待っていたら、連絡も掲載もないまま数か月が経過しました。そこで安彦さんは「没をお茶を濁して言ってくれたんだな」と思い、有名な編集者である長井さんに読んでもらえて満足したそうです。

 それを機に安彦さんは、漫画家への未練を断ち切り、目の前にある仕事に集中しようと、アニメーションに専念するようになります。そして、その原画やキャラクターデザインなどアニメーターとしての作家性が高く評価され、およそ5年後には富野由悠季監督とともに日本アニメーション史に残る金字塔『機動戦士ガンダム』を手掛けて、活躍の場をより多方面に広げていきました。『機動戦士ガンダム』から10年後の1989年に発表した漫画『ナムジ 大國主』以降は、創作の主軸をマンガに移し、現在に至ります。

 さて、安彦さんは、長井さんの言葉を社交辞令のように言っていますが、当時「ガロ」編集部にいた浜津守さんがSNSに興味深いことを記しています。

 安彦さんが持ち込んだ当時、「ガロ」編集部内は売れ行きが芳しくなかったことから、編集方針が分かれていたのだそうです。長井さんは『繭こもり』を載せたいと主張しましたが、新人やより実験的な表現、既存のマンガの枠を越えた作品を重視する方向が有力だったため、「これだけちゃんとしたマンガを描ける人なら他誌からでもデビューできるだろう」と判断して掲載を見送ったのだとか。

 浜津さんは、後にアニメーターに転身して『機動戦士ガンダム』の動画チェックをはじめ、安彦良和さんの監督作品に演出として参加していますが、これも縁というものでしょうか(転身後『繭こもり』についても安彦さんと話したそうです)。

『繭こもり』の原稿は、1998年「ガロ」休刊の際に返却されますが、同年に同じく秩父事件を扱い、後に文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を受賞、「漫画家・安彦良和」の代表作ともいえる『王道の狗』の連載が始まっているのも、何か運命じみたものを感じます。

「ガロ」での没によって、『機動戦士ガンダム』や『王道の狗』をはじめとする安彦さんの作家性が発揮される数々の名作が生まれたのです。

 最後に前述の雑誌の取材時、「ガロ」は原稿料が出ないことで有名ですが、もし『繭こもり』が掲載されていたらどうしたか、と安彦さんに尋ねました。安彦さんは「肉体労働しながら『ガロ』で描いていたかもしれない。だから載らなくて良かったですよ」と笑顔で答えました。

(倉田雅弘)

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