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『宇宙戦艦ヤマト』放送開始から半世紀 視聴率惨敗から未曽有のブームになったワケ

マグミクス / 2024年10月6日 6時35分

『宇宙戦艦ヤマト』放送開始から半世紀 視聴率惨敗から未曽有のブームになったワケ

■視聴率争いの敗北が『ヤマト』の歴史の始まりだった

 本日10月6日は、1974年にTVアニメ『宇宙戦艦ヤマト』が放映開始した日です。今年2024年で半世紀の時が経ちました。日本のアニメ文化に大きな1ページを記した、その功績を振り返ってみましょう。

『ヤマト』の物語は、アニメに興味を持つ人ならほとんどが知っていることでしょう。それほどまでの知名度があります。しかし放映当時としては斬新な設定で、視聴者はもちろん、一部のアニメ制作関係者にも驚かれました。

 なぜなら、当時の子供向け作品、いわゆる「テレビまんが」作品では、地球が舞台の作品がほとんどで、宇宙を舞台とした作品はあまりポピュラーではなかったからです。『ヤマト』以降、SFジャンルのヒット作を見ていくと、宇宙を舞台にしたものが徐々に中心となっていきました。

 そういった点から見ると『ヤマト』は、時代を先取りした作品だったというわけです。しかし、最初から成功したわけではありません。最初の難関として、TV作品として避けて通れない「視聴率争い」がありました。

『ヤマト』が放送された時間枠は日曜日の19時半です。前番組はTVアニメ『侍ジャイアンツ』でした。この時間枠には人気シリーズである「カルピスまんが劇場」の第6作『アルプスの少女ハイジ』という高視聴率番組がすでに放送されており、さらに同じ日に円谷プロ製作の特撮番組『SFドラマ 猿の軍団』がスタートしています。

 そのように視聴率激戦区だったことから、『ヤマト』は『ハイジ』のメイン視聴者だった幼児を中心とするファミリー層向けとは逆に、比較的高い年齢層をターゲットに考えました。それが結果的に『ヤマト』の魅力の一端を担うことになったのかもしれません。

 最終的には『ヤマト』は、この視聴率争いに敗れて放送を当初予定から短縮した全26話で終了します。ところが、『ヤマト』はここで終わりませんでした。『ヤマト』が再注目された原因、それは再放送により人気と知名度が上がったことにあります。

 当時は、現在と違ってまだ再放送文化というものがあり、再放送による人気再燃という現象がありました。たとえば『ルパン三世』なども再放送で人気に火が付き、第2シリーズが制作され、それをきっかけに現在のような一大コンテンツにまでなっています。余談ですが、この『ルパン三世』も本放送は『ヤマト』と同じ日曜19時半の放送枠でした。

 現在なら、ネットによって放送中から無名の作品が注目されることもあるでしょう。当時はそんなものがありませんから、情報はつねに口伝が中心でした。学校での子供たちの伝聞が、『ヤマト』の再燃を助けたと考えられます。当時の子供だった筆者の体感もそうでした。

 それに当時の男の子的には、ファミリー向けだった「カルピスまんが劇場」よりも『侍ジャイアンツ』の放送枠を注視していました。それゆえに『ハイジ』よりも、『猿の軍団』と『ヤマト』の二択の方が多かったかもしれません。もっとも筆者は映画『猿の惑星』にトラウマを抱いていたので、最初から『ヤマト』派でした。

 こうして『ヤマト』は、再放送と子供たちの口コミネットワークにより、徐々に視聴者を増やし人気を博していきましたが、もちろんそれだけではない人気要因もいくつかあったのです。

■『ヤマト』が開拓した新たな1ページ

2023年に『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』4kリマスター版が劇場公開された際の前売券特典「復刻ビジュアルB2ポスター」 (C)東北新社/著作総監修 西崎彰司

『ヤマト』という作品に注目していたのは、子供たちだけではありません。前述したように、作り手側に属する大人からも注目されていました。

 その一例として、放送翌年の1975年に「星雲賞」の「映画演劇・メディア部門」を『ヤマト』は受賞しています。この星雲賞とは、日本SF大会参加者によるファン投票で決められるもので、TVアニメでは初の受賞となります。

 そして、『ヤマト』が再放送を経て大きな波に乗ったきっかけが、TV版を再編集した劇場版の制作でした。この劇場版を分水嶺として、『ヤマト』は未曽有のブームを生む作品への道を歩むことになります。

 そのきっかけのひとつだったのが、出版による後支えでした。最初は、当初サブカルチャー雑誌として創刊した「月刊OUT」(みのり書房)1977年6月号です。「OUT」での初めてのアニメ特集として『ヤマト』は誌面を飾りました。この号は大変好調で、雑誌としては異例の増刷までしています。この増刷をきっかけに、「OUT」は徐々にアニメ特集を組むようになりました。

 これに続いたのが、同年8月ごろに児童向けテレビ雑誌「テレビランド」の増刊として発売された、「ロマンアルバム 宇宙戦艦ヤマト」(徳間書店)です。

 この「ロマンアルバム」は、後にも名作といわれるアニメ作品たちを中心に発行されていきました。その流れで翌年1978年5月に月刊アニメ雑誌「アニメージュ」が創刊されます。この「アニメージュ」の登場により、アニメ雑誌という新ジャンルに注目が集まることになりました。

 話は前後しますが、この時期には「アニメ」という言葉が一般的になります。それまでは今でいうアニメと特撮、子供向けTV番組は「テレビまんが」と呼ばれていました。もちろんアニメと特撮という言葉自体はありましたが、あまり一般的ではなく、子供向け作品はひとくくりにテレビまんがといわれることが一般的だったのです。

 この常識を大きく変えたのが『ヤマト』でした。『ヤマト』の劇場版から積極的にアニメという単語を使用し、やがてそれを普及させたわけです。これには子供向けのテレビまんがから、大人も楽しめるアニメへの脱却という意図があったのかもしれません。

 こうした空気感のなか、全国的に『ヤマト』のファンクラブは結成されていきました。この自発的なファンの活動もあって、『ヤマト』の劇場版は大ヒットとなります。そのヒットを後押しした要因もいくつもありました。

 たとえば前述の「OUT」でふたたび『ヤマト』特集を組んだ際、劇場版の前売り券の購入方法が紹介された影響で、前売り券が大量に売れたといわれています。この勢いで、当初は東京のみで劇場公開される予定が、全国公開にまで発展しました。

 日本映画で、徹夜で並ぶ人が現れたのも『ヤマト』がきっかけといわれています。その最大の理由が、先着順で配られたセル画でした。当時は入手方法がそれほど確立しておらず、ファンにとっては一品物のお宝だったといえるでしょう。

 このほかにも『ヤマト』をきっかけに刷新されたものが多くあるなか、後のアニメ業界を支える人材を育てたという部分は大きいと思います。たとえば『ヤマト』がなければクリエイターになっていないという人たちで、よく名前を挙げられるのが庵野秀明さんや出渕裕さんたちでしょうか。

 このようにアニメ文化を根付かせた『ヤマト』という作品がなければ、現在の日本の文化は大きく異なる様相を呈していたことでしょう。そういえるほど、その影響は大きなものだったと思います。

(加々美利治)

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