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手がかりは「女工哀史」〝取材の鬼〟山崎豊子の記事を探し出すまで

毎日新聞 / 2024年6月22日 10時0分

1946年10月14日大阪本社版の朝刊2面。下部の「文化欄」に山崎豊子のルポが掲載されている

 「あった……」。文末の署名を見つけ、息を吐いた。

 作家・山崎豊子(1924~2013年)が毎日新聞記者時代に書いた、女性労働者に関する記事が見つかった。山崎が生前、当時の上司だった井上靖から褒められた逸話を語っていた一本。出版関係者らに存在は知られていたが、長く埋もれ、光があてられたことはなかった。

 手がかりは「昭和女工哀史」。記者が探し出すまでの長い道のりを紹介したい。【石川将来】

長らく不明だった記者時代の記事

 記者は毎日新聞大阪本社学芸部に所属し、井上、山崎の後輩にあたる。今年2月、24年が山崎の生誕100年にあたるのを機に、上司から企画記事を考えるよう指示された。「毎日新聞時代にどんな記事を書いていたのか、詳しくは分からない。当時の記事は署名も入っていないから」。その時の上司のつぶやきが引っかかった。

 「取材の鬼」と称されるほどの徹底調査で知られた山崎。新聞記者時代の記事を読むことは、作家としてのスタイルの確立過程を見ることにつながるのでは――。山崎の作品に親しんできた記者は、好奇心がかき立てられた。

 山崎は44~58年、毎日新聞に在籍。調査部を経て配属された学芸部ではファッションなどを担当したが、記者時代の記事は作品のガイドブックにも収録されておらず、これまで毎日新聞でも特集していない。中でも、最も探したかったのが「昭和女工哀史」の記事だった。

 山崎は生前、インタビューでたびたびこの記事に言及している。例えば月刊誌「噂」(74年2月)では、学芸部時代に副部長だった井上の名前を挙げてこう語る。

 <井上靖先生のおかげで、一人で調査して書く記事、たとえば昭和女工哀史みたいなのを書かせてもらっていました。“調査の山崎”といわれるようにしてくだすったのは井上先生です。もうマニアなんですね、資料を読むのが>

人事部に駆け込み時期を特定

 難しいとはいっても我が社の記事だ。なんとかなるとたかをくくっていたが、道のりは険しかった。

 「昭和女工哀史」で分かっているのは、井上が学芸部副部長だった時に部員だった山崎が書いたということだけ。山崎が大阪本社に所属していたため、毎日新聞の大阪本社版に収容されている可能性が高いと推測したが、掲載日も見出しも分からない。

 さらに戦後間もない時期の大阪本社版の記事はデータベースに収録されているもののキーワード検索ができない。原紙の製本は保存されているが、貴重なもので閲覧は容易にできない。マイクロフィルムを1日ずつ映して探すしかない、と覚悟を決めた。

 まずは対象期間を絞ろうと試みた。人事部に、山崎が井上副部長の下で働いた時期を調べてもらったところ、46年1月~48年10月と分かった。それでもまだ2年10カ月分ある。

 絞り込むポイントはさらにあった。キーマンは井上。山崎が自作を語った「大阪づくし 私の産声」(新潮社)によれば、2人は「昭和女工哀史」の記事をきっかけに交流を深め、やがて山崎は井上が新聞社勤務の傍ら小説を書いていることを知る。その後、井上は山崎に文芸誌の新人小説に短編「猟銃」を応募し、落選したと話している(「猟銃」は後に改作して発表)。

 時系列を整理すれば、記事掲載は短編小説の落選前。記者が井上の研究本をひもとくと、落選は48年夏ごろと分かり、対象は46年1月~48年夏とわずかに短縮された。

 当時の紙面は1日2~4ページだったとはいえ、マイクロフィルムを約2年半分、隅々まで目を通す作業は骨が折れた。3月中旬、まずは自社で2日にわたって約6時間かけて探したが、見つけられない。見落としたのかと、大阪市立図書館に場所を変えて探したが、2巡目も成果を得られなかった。

 「なぜないのだろう」。行き詰まり、角度を変えることにした。

 「昭和女工哀史」なのだから、紡績工場や女性労働史を扱った書物や論文に記事が引用されているのではないか。図書館でいくつか資料を調べたが空振り。繊維系の労働組合や、労働関係の資料を保存する「エル・ライブラリー」(大阪産業労働資料館)にも問い合わせ、紹介してもらったのが神戸大経済経営研究所(神戸市)だ。

 研究所には全国紙や地方紙の記事が「経済」「金融」などテーマごとに保存されている。4月上旬、同研究所へ行き、「労働」「繊維」「生糸」などに特化したマイクロフィルムを見せてもらった。

 自社や図書館で見たフィルムは、紙面全体を映し出していたが、今回はテーマの記事のみが切り抜かれているため映し出される記事のサイズが大きい。他紙もあるため、毎日新聞の記事に目を凝らすようにした。

「日記と双璧をなす貴重な資料」

 「労働」のフィルムを見始めて約40分。一瞬、記事の末尾に、見覚えのある文字が見えた気がした。いきすぎたフィルムを慌てて前のページに戻すと「山崎豊子」の署名入りの記事があった。

 小さい見出しに「紡績女工を現地にみる」とある。結論からいえば、自社と図書館では記事を見落としていた。該当記事は46年10月14日の大阪本社版朝刊2面の下部に掲載され、キーワードの「女工」はメインの見出しではなく、脇の小見出しに入っていて想像以上に気づきにくかった。当時としては珍しい署名が入っていなければ、この記事が山崎によるものか確かめるのも困難だっただろう。

 最後の担当編集者で、山崎の死去後に創作ノートなどの資料調査に関わった新潮社の矢代新一郎さん(60)は、この記事について「死去後に見つかった日記と双璧をなす貴重な資料だ」と評価する。

 矢代さんは09年ごろ、山崎のエッセー集を作成するにあたり、山崎に新聞記者時代の記事を保管していないか直接尋ねたが「ない」との返答だったという。死去後には、自宅資料の整理にも関わったが見つけることはできなかった。取材に「作家としての原点が見られると期待し、私も探したが見つけられなかった。新聞記者時代の記事を目にしたのは初めてで、興奮している」と話した。

 山崎のおいの定樹さん(64)も毎日新聞在籍時の記事を見たことがなかったという。「生前は過去の話はほとんどしない人だった。客観的なデータをおりまぜながらも、ストーリーとしても読み手の興味を引くのは、彼女の持つ動物的勘が働いたからだろう」と分析する。

 ようやく見つけた大先輩の記事。2紡績工場の女性労働者の実態が主観を交えながら詳細に報告されていた。入社3年目の「新聞記者・山崎豊子」の記事に、「作家・山崎豊子」の顔が見え隠れする。苦労して探し当てたかいがあったと、報われた思いがした。

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