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生死を分けた小指の痛み 1歳の沖縄戦

毎日新聞 / 2024年6月22日 11時0分

沖縄戦で負傷した左手の小指を切断し、ホルマリンに漬けて保管している知念勝盛さん=沖縄県南風原町で2024年4月16日、喜屋武真之介撮影

 第二次世界大戦末期に激しい地上戦が繰り広げられた沖縄は、今年も23日に「慰霊の日」を迎える。日本軍の巨大な飛行場が造られた伊江島は、米軍に狙われて「沖縄戦の縮図」と言われる凄惨(せいさん)な戦場となり、多くの幼い子どもたちも戦火にさらされた。

 伊江島出身で当時1歳だった知念勝盛さん(80)=沖縄県南風原(はえばる)町=の左手には、小指がない。1945年4月の米軍上陸後、勝盛さんを背負っていた母が米兵に狙撃され、銃弾は勝盛さんの左手に当たった。ちぎれかかっていた小指を父が刻みたばこで止血し、包帯を巻いて固定。奇跡的につながったが、動くことも成長することもなく、25歳のときに手術で切断した。

 戦争の記憶はない。ただ、日常生活では嫌でも左手が目に入り、そのたびに「戦争」が突きつけられる。「ヤクザ」「1歳のときを覚えているのか」。心ない言葉をかけられることもあった。切断した小指は「何かの証拠になれば」とホルマリンに漬け瓶で保管しているが、国は一部を除き民間人の戦争被害を補償していない。「お金が欲しいわけではなく、戦争被害者として認めてほしい」

 戦時中に父たちが「勝盛が泣いたら殺そう」と話していたことを兄から聞いたのは約10年前のことだ。勝盛さんはほとんど泣かなかったという。撃たれた出血で「泣く元気がなかったんだろう」。勝盛さんを苦しめてきた小指のけがが、皮肉にも命をつないでいた。

◇◇

 「私をドンって蹴ったの」。当時9歳だった伊江島出身の並里千枝子さん(88)=同県北谷(ちゃたん)町=は、右の太ももをさすりながらそう振り返る。1歳だった弟の清隆さんが生きようとあがいたあの日の感触は、今も鮮明だ。

 米軍上陸の数日前から艦砲射撃が激しさを増し、千枝子さんは集落内の「ユナッパチク壕(ごう)」に避難していた。地下約20メートル、長さ約100メートルあったが、住民と日本軍ですし詰め状態だったという。

 米軍上陸後に母の母乳が出なくなり、清隆さんが泣きやまなくなった。そこへやってきた日本兵が少年兵に清隆さんの射殺を命令。ためらう少年兵に日本兵は「それでも兵士か!」と暴行を始め、壕の中は恐怖で覆われていった。

 そんなとき、隣で母に抱かれていた清隆さんの小さな足が、千枝子さんの右足を蹴った。いつの間にか泣きやんでおり、「母乳が出たんだ」と安心したという。しかし、その足が動くことはもうなかった。母も清隆さんの顔を抱きしめ、胸に強く押しつけたまま動こうとしなかった。千枝子さんが清隆さんの死に気がついたのは、しばらくたってからのことだ。

 戦後、母は清隆さんのことを語ろうとしなかったが、62歳で亡くなる直前「早く清隆ちゃんを抱きに行かないと」と口にした。我が子を手にかけたことを「ずっと苦しんでいたのだと思う」。

 泣き声で分けられた赤ん坊たちの生死。勝盛さんは切断した小指を手に、学校などで講演を続けている。戦争体験者は年々少なくなっているが、「当時最も若い世代の私たちを、最後の戦争体験者にしなくてはならない」。そう願っている。【写真・文 喜屋武真之介】

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