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富岡製糸場、どんな場所? 世界文化遺産の登録から10年

毎日新聞 / 2024年6月23日 8時1分

富岡製糸場の東置繭所=群馬県富岡市で2024年6月3日午後0時18分、加藤栄撮影

 「富岡製糸場と絹産業遺産群」が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されてから25日で10年を迎える。どんな場所なのか、登録に至った経緯などをまとめた。

三つの構成資産と合わせ世界文化遺産に

 なるほドリ 富岡(とみおか)製糸場(せいしじょう)(群馬県富岡市)が世界文化遺産に登録されてから10周年を迎えると聞いたよ。どんな場所なの?

 記者 1872(明治5)年に操業が始まった官営(かんえい)の製糸工場です。現在は稼働していませんが、レンガ造りの繭倉庫(まゆそうこ)などがほぼ当時のまま残っています。

 蚕(かいこ)の卵を低温貯蔵した荒船風穴(あらふねふうけつ)(下仁田町)など三つの構成資産と合わせ、2014年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界文化遺産に登録されました。

 Q 世界文化遺産にはなぜ登録されたの?

 A 日本が海外と本格的に貿易を始めた1860~70年ごろ、輸出品の多くを占めていたのが絹でした。ただ、あまりの需要の高さに粗悪品(そあくひん)が出回る事態に陥ったのです。そこで、国は絹の生産に注力することに決め、製糸場を造りました。

 富岡製糸場ではフランス製の器械を輸入して日本人が使いやすいようにアレンジし、フランス人技術者も招くなど全国から集まった女性たちが生糸(きいと)を大量生産していきました。また、技術を身につけた女性たちは地元に戻って製糸技術を教え、絹産業が盛んになっていったのです。

 絹の技術に関して世界との交流が進み、機械化・効率化により絹の大量生産も成し遂げたという点が評価され、世界文化遺産となりました。

 Q どうして富岡市に製糸場が造られたの?

 A 現在の長野県や群馬県周辺は養蚕(ようさん)が盛んで、富岡は原料となる繭が確保できるという背景がありました。また、製糸場を造るためには広大な土地や豊富な水が必要で、その点でも富岡はクリアしていたのです。

 そもそもですが、貿易の窓口となる横浜からそこまで遠くないことや、地元住民からの了解が得られていたという点も建設場所に選ばれた要因となりました。

 Q 富岡製糸場では具体的には何をしていたの?

 A 養蚕農家から買い取った繭を煮て、絹糸を取り出し、生糸にしていました。

 生糸にする工程は、フランス人指導者の手ほどきを受けながら、全国から集まった女性が海外から輸入した器械を使って行いました。

 また、富岡製糸場の操業とともに、周辺の養蚕農家で飼育法などの研究が進み、より質の高い繭が大量に生産されるようになりました。そうして、絹産業が日本の産業として確立し、日本の近代化が進んでいったのです。

 Q どんな人たちが働いていたの?

 A 働いていた人はほとんどが女性で、埼玉や長野、新潟などの近隣県や北海道や山口県など遠方から来ていた人もいます。こうした女性たちは「工女(こうじょ)」と呼ばれました。三井家に払い下げられ、民営になってからも女性が多く働き、日本の絹産業を支え続けていたのです。

 Q 見どころは?

 A 操業当時のほぼそのまま残っている東・西置繭所(おきまゆじょ)は全長約104メートルに及ぶ圧巻の大きさで、一見する価値はあるでしょう。入り口正面にある東置繭所には「明治五年」と刻印のあるレンガがあり、西置繭所にあるギャラリーには工女たちが着ていた制服のレプリカも展示されています。

 敷地内には当時の社宅や診療所などが残っていて、働いていた人たちの様子をうかがい知ることができます。生糸ができるまでや製糸場の軌跡なども紹介されているので、近代日本の産業の歴史を学ぶこともできます。市の担当者は敷地南側にある山や川の風景もおすすめと言っていました。全国から集まった工女たちが、故郷を思ったり、日々の疲れを癒やしたりしていたと考えると、風景もまた違って見えそうですね。回答・加藤栄

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