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帰れぬ古里、生きた証しを 福島・浪江の80歳男性、13年かけ記録誌

毎日新聞 / 2024年7月8日 10時30分

完成した浪江町赤宇木地区の記録誌を見つめる今野義人さん=福島県白河市で2024年5月28日、松本ゆう雅撮影

 東京電力福島第1原発事故に伴う帰還困難区域として避難指示が続く福島県浪江町赤宇木(あこうぎ)地区の住民が記録誌「百年後の子孫(こども)たちへ」を完成させた。約13年の歳月を費やしてまとめ上げた元区長の今野義人さん(80)は「生きているうちに古里が復興する姿は見られないかもしれないが、未来の子どもたちに赤宇木の歴史や暮らしを伝え、思いをつなげたい」と願いを込める。【松本ゆう雅】

 「放射能はいつなくなるんですか」。2011年秋ごろに開かれた環境省などによる説明会で、住民の1人が問いかけた。同省の担当者から返ってきた言葉は信じがたいものだった。「手をかけなければ100年は無理だろう」。今野さんは「赤宇木のこれからの生活が失われてしまう」と絶句した。

 せめて赤宇木で生きた証を残さなければ――。記録誌の制作は、この説明会の後から始まった。だが、作業は想像以上に困難を極めた。

 赤宇木地区は旧津島村(現・浪江町西部)の山々に囲まれた緑豊かな集落。太平洋戦争後、旧満州(現在の中国東北部)から引き揚げた人々が入植し、荒れ地を開拓して農地を広げた。旧津島村は原発事故前、アイドルグループ「TOKIO」がテレビ番組で農作業にいそしんだ「DASH村」の舞台にもなった。今野さんはこの地で生まれ育ち、高校卒業後、農家として稲作やキュウリ、大根などを栽培。05年ごろからは行政区長として地域運営にも取り組んだ。

避難先に原稿依頼、全戸聞き取り

 だが、穏やかな日常は原発事故によって失われた。避難生活を強いられ、各地の避難所や仮設住宅を転々とする日々が続いた。

 赤宇木地区の事故前の人口は約260人。原発事故後、住民は県内のほか首都圏や北海道などにも避難していた。今野さんは住民たちに原稿用紙を送り、赤宇木への思いを書いてほしいと依頼。返信のなかった人たちの避難先にも足を運び、全戸へ聞き取った。作業は長期化し、体調を崩して作業が止まることもあった。「話を聞いた住民が何人も亡くなった。みんなの思いが込められたものなので、プレッシャーも大きかった」

 約13年をかけ、今年3月にようやく完成。4月末ごろから住民などに配り始めた。赤宇木の暮らしや思い出、避難生活の戸惑い、原発事故への憤り、将来への不安――。記録誌には、住民たちが抱える複雑な心の揺らぎがびっしりと刻み込まれている。地域の歴史や文化、祭や葬送儀礼の作法など、約800ページにわたって赤宇木の詳細が記録されている。

 福島市で避難生活を送る白坂治義さん(76)は、記録誌の完成を待ち望んでいた一人。今野さんから記録誌を受け取ると、「先日も自宅の様子を見に立ち入ったが、荒れ果てていた。きれいな古里の写真がたくさん載っていていいね」と懐かしんだ。

 今野さんは現在、白河市の民家で避難生活を送る。山林や田んぼに囲まれた環境が、古里の環境に似ていて親近感を感じているが、「赤宇木とはやっぱり違う。ここは仮住まいなんだな」と言う。今後、避難指示が解除されれば帰還を希望しているが、「俺も体力に限界がある。生きているうちには復興の姿は見られないのかな」とこぼす。だからこそ、100年後の未来に思いをはせる。「いつか子どもたちがこの記録誌をひもといて、先祖の足跡をたどりながら今一度、赤宇木で生活してみようという気持ちになってくれたらうれしい。それが大きな願いだね」

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