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「一生帰れない」と言われ「刑期ない牢屋」へ ハンセン病患者の半生

毎日新聞 / 2024年7月11日 7時30分

ハンセン病問題を風化させないため、フォーラムで自分の体験を語る桂田博祥さん=札幌市中央区で2009年12月11日午後6時54分、水戸健一撮影

 順調だった結婚生活は27歳で突然、終わった。旧国鉄職員として北海道の道南の駅で働いていた男性は病院受診後、周囲に「一生帰ってこられない」と言われた。津軽海峡の向こうにある「刑期のない牢屋(ろうや)」のような場所に連れて行かれた理由はハンセン病だった。苦難の人生を語り、昨年秋に99歳で亡くなった男性の講演記録がこの春、札幌市で上映された。国策による人権侵害の不条理を訴えたその半生とは――。【片野裕之】

 青森市の国立ハンセン病療養所松丘保養園に強制隔離され、昨年10月に99歳で他界した桂田博祥さん。実名を公表して講演活動を続けてきた。5月11日に札幌市であったハンセン病市民学会の交流集会で、2002年にあった講演記録が上映された。

 秋田県に生まれ、14歳で家族と道南に移住した。小学校までしか出ておらず、国会公務員の採用試験を受けるため、4年かけて勉強。旧国鉄の仕事を得ると、生活は安定した。

 結婚もかない、順風満帆に見えたのもつかの間だった。体調を崩して病院を受診。診察室を出る間際、「レプラ(ハンセン病)」という言葉が聞こえてきた。

 当時、ハンセン病は特効薬が開発されていたにもかかわらず、国が隔離政策を続けていた。目の前が真っ暗になった。1時間ほども病院の隅に腰掛けていただろうか。その後、職場に行くと、鼻を突く消毒のにおいがした。室内に入った途端、上司から言われた。「自分の物を全部持って、今から休養しなさい」

 どれだけの時間をかけて自宅に帰ったか分からない。家に近づくと、職場と同じにおいがした。中で、家族全員が泣いていた。

 次の日から、病気のうわさが町内に広まった。「(保養所がある)青森に行くと、一生帰って来られない」と言われていた。駐在所の巡査は毎日のように自宅に来て桂田さんの所在を確かめる。悪評に耐えかねた妹は家を出た。ついに保養園に隔離されることになり、貨物車で送られる直前、母親は「必ず帰りを待っているから」と涙を流した。

 園でもつらい生活が続いた。外科や耳鼻科の医師はおらず園の職員が「見よう見まね」で治療をしていた。看護師は一人もいなかった。患者が患者を看護する。「本当に病院なのか」と疑った。子孫を残せなくするための断種手術も強いられた。

 除雪といった重労働も患者が担った。門の外に出るのを園長に見つかると、「お前らはもうこちらに来ることはできない」と言われた。

 国が1907年から続けた隔離政策は96年、らい予防法の廃止とともに終わった。98年に九州の元患者13人が国を相手取り、提訴。2001年5月11日、熊本地裁は原告側の全面勝訴判決を下し、元患者の被害を「人生被害」と表現した。だが、そのときさえも、桂田さんは「皆さまのように喜びは感じませんでした」。

 北海道は療養所がなかったが、地域住民や行政の偏見差別が強制隔離政策を支えた。その実態を明らかにしたいとの一心で、道に検証会議の設置を要望。行政が腰を上げ、専門家らによる検証作業が始まった。「自らも隔離政策を続けてきた北海道もその責任は免れない」。11年に出た報告書で思いが結実した。

 もっと早く法律が廃止されていたら、偏見差別がなかったら、人生は変わっていたのではないか。「一人残された母を思うに、一緒に生活できたのではないかとそんなふうに思いました」。桂田さんは講演記録でかみしめるように語っていた。

 桂田さんは、遺骨になり、やっと、ふるさとの道南で安らかに眠ることができた。

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