“日本一小さな”焼き肉店 81歳の店主を再起させた「病床での約束」
毎日新聞 / 2024年7月15日 12時0分
北九州市にあるレトロな市場の一角に「日本一小さい」と称される焼き肉店がある。約20平方メートルの店内にロースター付きのテーブルが1台あるだけだが、多くの常連客らでにぎわう。そんな小さな名店は、がんを患い失意に沈んでいた店主と入院先の看護師との「約束」から誕生した。
JR門司港駅から徒歩約10分の門司中央市場(同市門司区老松町)。精肉店や青果店、雑貨店などが並ぶ路地に、焼き肉店「南大門」はある。
「焼肉(やきにく)」と書かれた赤ちょうちんがつり下げられ、手書きのメニューが張られた入り口から中に入ると、客4人が入るのがやっとのスペースしかない。奥の厨房(ちゅうぼう)では、店主の河内年夫さん(81)が忙しく切り盛りする。
看板メニューは「焼肉定食」(税抜き2000円)。上質な肉と秘伝のタレが自慢の一品だ。「店を長年やってきて、お客さんに『おいしい』と言われるような上質な肉を使っています」。河内さんが笑う。
1943(昭和18)年、地元・北九州生まれ。30代の時、今の店から200メートルほど離れた商店街で、前身の焼き肉店「南大門」を開店した。門司港で働く港湾労働者からスーツ姿の会社員や出張で訪れるビジネスマンへと、時代は変われど愛されてきた。
肉の品質の高さと工夫を重ねたタレは評判を呼び、いつしか地元の人気店に。「門司港で一番大きな店にしたい」。そんな思いから、2012年には店を2階建てに増築した。
それから4年後の16年、思いもよらない事態が河内さんを襲う。健康診断で大腸がんが判明したのだ。
後継者がいなかったこともあり、設備は全て廃棄して店を閉め、北九州市内の病院に入院することになった。「『早く手術しないと手遅れになる』と言われ、もう焼き肉店をやめるほか無かった。どうすることもできなかった」
手術は成功したが、何もかも失い、生きる気力は湧かなかった。手術から1週間後、見習いらしき看護師の女性が傷口の消毒で病室を訪ねてきた。「手術は成功したので、また(お店に)復帰できますよ」と女性は励ましてくれたが、店は手放し、何も残っていない。「人の気持ちも知らないで」と内心腹立たしく思った。
そんな思いを知ってか知らでか、女性はその後も傷口の消毒のために、病室に来ては笑顔で「復帰できる」という言葉を繰り返した。「それなら私が焼き肉屋をまた始めたら、食べに来ますか? 約束しますか?」。河内さんが思わず問いかけると、女性は「約束します」と応じた。その後、担当の看護師は別の人に代わり、女性と会うことは二度となかった。
退院後もやることもなく、不眠に悩まされて鬱々とした日々が続いていた20年9月ごろのある日。自宅内で放置していた焼き肉店の予備用のテーブルが偶然、目に留まり、女性との約束が不意によみがえった。「いつか死ぬのなら、悔いのないように生きよう」と思い立った。
同年11月、門司中央市場の空き店舗に予備用のテーブルを運び込み、南大門を「再開」。最初の客は東京から出張で来たという男性だった。「うまかった。日本一小さい焼き肉屋じゃないか」。男性は喜んでくれた。
その日、家に帰った河内さんは久しぶりにぐっすりと眠れた。「その時、思いました。店に立ち、おいしい焼き肉を食べてもらえば、お客さんは笑顔になり、私は力がもらえると」
変わらぬタレと知人の精肉店から仕入れた新鮮な肉は、すぐに口コミで評判になった。SNS(ネット交流サービス)での投稿から予約も入るようになり、テレビでも取り上げられて話題にもなった。
ただあの時、店に来ると約束した看護師の女性は、まだ店に来ていない。
SNSなどで事情を知った客からは「あの看護師さんは店に来ましたか」と尋ねられることも。若い2人連れの女性客からは「焼酎やビールだけでなく、ワインを用意しておくと喜ばれると思う」とアドバイスもされた。別の客からは「看護師さんを探してあげましょうか」と持ちかけられたこともあったが、やんわりと断った。
「来られない事情があるかもしれない。元気でいてくれれば、それでいい。もし来てくれたら『あんたのお陰でこうやって元気に働いている。ありがとう』と伝えたい。そして、焼き肉を食べてもらえれば」。河内さんが静かに話す。
店内にある大型冷蔵庫の最上段には、いつでも封を切れるように3本のワインが冷やされている。“恩人”がいつか店を訪ねてくれた時のために。【反田昌平】
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