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広島の被爆樹木の前で続けた証言 「アオギリの語り部」遺志継ぐ展示

毎日新聞 / 2024年8月4日 6時45分

被爆樹木アオギリの前で体験を語る沼田鈴子さん=広島市中区で2007年7月25日、小松雄介撮影

 戦後の広島市民に勇気を与えた被爆樹木アオギリの前で、被爆体験の証言に長年取り組んだ女性がいた。平和を願う象徴として親しまれるアオギリはいま、葉が変色し、憂慮する声も上がる。女性の遺志を継ぐ有志が今夏、ゆかりの品を展示し、思いを広く伝えている。

21歳で被爆、左足を失い

 「戦争は人間がひき起こすもの。人間の知恵と努力で防ぐことができる」

 沼田鈴子さん(2011年7月に87歳で死去)は生前、自らの被爆証言に耳を傾ける人たちにそう訴えてきた。

 「加害者としても戦争に向き合い、平和のために未来を見つめていた人だと知ってほしい」。沼田さんが会長を務めていた市民グループ「被爆アオギリのねがいを広める会」の清水正人事務局長(68)は力を込める。

 沼田さんは21歳の時、爆心から約1・3キロ離れた勤務先の旧広島逓信局(現・日本郵便中国支社)で被爆し、左足を失い、婚約者も戦死した。絶望の中、被爆して幹に大きな傷を負ってもなお芽吹く勤務先のアオギリを目にし、生きる希望を取り戻した。戦後は広島市で高校の家庭科教諭になったが、差別や偏見のため心の傷を負い、長らく被爆体験を語ることはなかった。

フィルムに写っていた「被爆直後の自分」

 転機は、被爆から35年以上過ぎた58歳の時。米国が撮影した被爆地の記録フィルムを買い戻す「10フィート運動」で返還された米調査団のフィルムに被爆直後の自分が写っていたのをきっかけに、証言活動を始めた。平和記念公園に移植されていた被爆アオギリを「自分の分身」と呼び、その下で、修学旅行で訪れた子どもたちに体験を語り、その種を渡した。

 国内だけでなく、アジアや欧米など世界中を精力的に訪問した。核兵器廃絶を訴えるだけでなく、日本の戦争責任と向き合って被害と加害の両面から戦争を繰り返さない道を訴えてきた。晩年はリウマチの悪化などで入退院を繰り返したが、入所施設や入院先でも、証言活動をやめなかった。

 広める会は沼田さんの残した自筆の原稿や活動を記録した手帳など約1万点にも及ぶ遺品を整理してきた。24年7月29日から8月4日まで広島市内で遺品展を開催。証言のためにまとめたとみられる原稿や、79歳の時に描いた、手当を受ける被爆者らの絵など貴重な資料が並んだ。原稿には、「平和の原点は人の痛みを分かる心を持つ人間であること」「出発は自分の平和への種まきであってほしい」との本人の思いがつづられている。清水事務局長は「晩年もほとんどの時間を活動に充てていた」と振り返る。

アオギリに異変

 今夏、沼田さんの「分身」であるアオギリに異変が生じていることが明らかとなった。「G7広島サミット記念館」が5月、アオギリのすぐ隣に建てられ、同館の白い壁に反射した日光の影響を受けた可能性が指摘されている。

 被爆直後は75年は草木が生えないと言われた広島で、アオギリなどの被爆樹木が芽吹いたことが、沼田さんをはじめ多くの市民が立ち上がるきっかけになった。清水事務局長は「当時の人々の思いや、被爆樹木をみんな大切にしてほしい。それが沼田さんの願いでもある」【広瀬晃子】

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