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きょう首相と面会 救済求め、長崎の被爆体験者が見せる絵は…

毎日新聞 / 2024年8月9日 6時0分

 米軍による長崎への原爆投下から9日で79年。爆心地から約12キロ以内で長崎原爆に遭いながら、国が指定する援護区域の外にいたとして被爆者と認められない「被爆体験者」が9日、長崎市を訪れる岸田文雄首相と面会し、救済を直接訴える。被爆体験者団体の会長を務める岩永千代子さん(88)=長崎市=は、原爆投下後に灰や雨が降った様子が描かれた絵を示し、迫るつもりだ。「私たちも内部被ばくによって健康被害を受けた可能性が否定できない被爆者だ」と。

 岩永さんらは、平和祈念式典後に岸田首相が被爆者団体からの要望を聞く場に出席する。歴代首相で被爆体験者と面会するのは初めてとなる。

 真っ暗になった空から雪のように降り注ぐ灰や燃えかす。岩永さんが持参する絵の一つは、1945年8月9日に爆心地の東約11キロの戸石村(現長崎市)で、鈴木洋平さん(90)が見た光景を知人に描いてもらったものだ。

 鈴木さんは当時11歳。閃光(せんこう)と爆音、爆風の後、落下傘が落ちてきた。原爆の効果を確認するために米軍機が投下した計測器だったが、米兵が降下してきたと思った叔父が家から飛び出していった。鈴木さんもランニングシャツに半ズボン、わら草履をはいて、竹やりを手に追いかけた。

 すると空が暗くなって、灰やごみが降ってきた。太陽は真っ赤に見えた。灰は、畑の野菜や飲み水を引く竹どいにも積もった。鈴木さんは下痢をし、顔いっぱいに吹き出物ができた。叔父は数年後に死亡。鈴木さんは70歳の時、前立腺がんの手術を受けたが、5年後に再発した。「病気は原爆のせいだと思っている。『黒い雨』体験者に被爆者健康手帳を交付している広島と同じ扱いをしてほしい」と声を絞り出す。

 岩永さんら被爆体験者は2007年、被爆者手帳の交付を求めて提訴した。訴訟の係争中、約400人の原告に絵の制作を呼び掛け、うち半数が自身で描いたり、家族や知人らに描いてもらったりして、絵を寄せた。訴訟は敗訴が確定したが、岩永さんら44人は今、改めて手帳交付を求めて長崎地裁で訴訟を闘う。今回、首相に見せるのは、かつて集めた絵の一部で、岩永さんの手元には他にも原爆投下後の降灰などを描いた絵がたくさんある。

 長崎市の松本ナル子さん(80)は、降り注ぐ灰や紙切れなどを、ざるで拾い集めた兄や姉の体験を他の原告に頼んで描いてもらった。爆心地の北東約9キロの古賀村(現長崎市)での状況。当時7歳だった姉は生前、「日食の時みたいに太陽がオレンジ色になり、真っ黒な空から紙の燃えかすが粉雪のように降った。誰かが『紙幣が飛んで来る』と言ったので拾って回った」と証言していた。

 1歳7カ月だった松本さんは姉に背負われていた。姉は21歳、松本さんは32歳でともに甲状腺がんになって手術を受けた。兄は59歳の時に白血病で死んだ。松本さんは「岸田首相は形だけの面会をするのではなく、『救済する』と言ってほしい」と願う。

 長崎県諫早市の村上幸子さん(85)も、6歳の時に古賀村の自宅の庭で落ちてきた紙くずなどを妹と拾った体験を、夫の大吉郎さん(88)に描いてもらった。

 村上さんは11歳の時に血小板が減少する紫斑病と診断され、高校1年の時には腎臓病で1年8カ月入院した。49歳でがんの疑いで卵巣と子宮を全摘し、64歳の時と76歳の時に舌がんで手術を受けた。「一日も早く被爆者健康手帳が欲しい」

 大吉郎さんも9歳の時、爆心地の東8キロ余りの矢上村(現長崎市)で、同じように空から舞い落ちる紙くずを拾った。庭の夏ミカンの葉に灰が積もっていた。7歳だった弟は45年8月末、原因不明の腹痛を訴えて急死。大吉郎さんは64歳の時に左目の下に皮膚がんができて手術を受けた。大吉郎さんは「私たちの病気は原爆に関係していると思う」と語る。【樋口岳大】

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