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被爆遺構、保存巡りたびたび議論 解体方針を転換した例も

毎日新聞 / 2024年8月8日 5時31分

米軍が戦後、撮影した三菱重工長崎造船所幸町工場(中央)。原爆投下時は近くに福岡俘虜収容所第14分所があった=長崎原爆資料館所蔵

 長崎市幸町の複合施設建設地で、長崎原爆投下時に爆心地の南約1・7キロにあって全壊した捕虜収容所の基礎の遺構が2022年に見つかっていたことが市などへの取材で判明した。市は「原爆被害を伝える遺跡とは認められず、保存対象ではない」と判断し、遺構は保存されなかった。

 広島、長崎の爆心地周辺に残る被爆遺構の保存についてはこれまでも度々、議論を呼んできた。

 広島市では2020~21年、爆心地の北約800メートルにあるサッカースタジアムの建設予定地で、原爆投下で壊滅した旧陸軍「中国軍管区輜重(しちょう)兵補充隊」の施設跡が見つかった。市民から被爆遺構として公開や保存を求める声が上がり、市は現地説明会を開き、厩舎(きゅうしゃ)の入り口の石畳など3カ所を切り取って保存すると決めた。

 爆心地の南東約2・7キロにある被爆建物の旧広島陸軍被服支廠(ししょう)については、広島県が19年、所有する3棟のうち1棟を残して解体する方針を示した。しかし、被爆者団体などから保存を求める声が相次ぎ、全3棟を保存する方針に転換。24年1月に国の重要文化財に指定された。

 長崎市では1992年、爆心地に近い平和公園の地下駐車場の工事現場で、長崎刑務所浦上刑務支所の基礎部分などが見つかった。市民から保存を求める声が上がり、一部が被爆遺構として保存された。

 市内の旧城山国民学校校舎や浦上天主堂旧鐘楼などは「原爆投下の歴史的事実や核兵器の被害、戦争の悲惨さを如実に伝える」と価値が認められ、16年に「長崎原爆遺跡」として国の史跡に指定された。

 一方、18年には福岡俘虜(ふりょ)収容所第14分所跡に近い九州新幹線長崎ルートのトンネル工事現場で15カ所の防空壕(ごう)群が見つかった。爆心地の南約1・8キロにあり、被爆時は瀕死(ひんし)の負傷者が逃げ込んだ場所だったが、市は「被爆の痕跡がない」などとして、保存対象とはしなかった。【樋口岳大】

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