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王族ゆかりの名字をなぜ 「本土風」に変えた父に何があったのか

毎日新聞 / 2024年8月11日 7時0分

美里朝保さんが作製した美里家の家紋の貼り絵=横浜市鶴見区で、宮城裕也撮影

 毎日新聞が戦時中に発行した青年向け雑誌「大日本青年」には延べ1万5000人を超える読者からの投稿が掲載されました。

 彼らは戦争の時代をどう生き抜いたのか。あるいは命を落としたのか。

 その人生をたどり、受け止めるため、「大日本青年」の残像を記者たちが追いかけました。

 「僕は台風と黒砂糖の産地で有名な沖縄の一青年です」

 雑誌「大日本青年」昭和15(1940)年2月1日号の読者欄にあったこの一文から始まる投稿に目が留まった。

 沖縄からの投稿がほとんど見られない中、はがきを送ったのは美里朝保(ともやす)さん。「那覇市立第一青年学校生」とあるだけで住所はなかった。

 青年学校は尋常小学校や国民学校初等科を卒業した勤労青年への社会教育のため、全国各地に置かれた学校だ。

 記者も沖縄で生まれ育ち、大学生まで24年間を過ごした。その沖縄で働きながら勉強にいそしむ10代半ばの少年の姿が浮かんだ。

 投稿では、39年5月から大日本青年を愛読し、本棚に15冊ほど並んでいることを伝え、「淋(さび)しい時、不服な時」に読むと、「これらの感情が消失して心中大へん朗かになります」とつづっていた。青年学校の公民の試験で役立っているとも付け加えられていた。

 4年後の44年、那覇市は大規模な空襲により全域が焦土と化す。その翌年には米軍が沖縄に上陸し、日本軍の司令部が置かれた首里城周辺は激戦地となった。

 「鉄の暴風」と形容される無数の空襲や艦砲射撃などで県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦に、朝保さんも巻き込まれたのだろうか。

「本土風」に変えた読み方

 昔の電話帳を調べると、「美里朝保」の名前で見つかったのは沖縄県内ではなく、横浜市鶴見区の住所だった。

 京浜工業地帯に位置する鶴見は、戦前から職を求める沖縄県民が多く移住した「沖縄タウン」とも呼ばれるまちだ。

 6月上旬、JR鶴見駅からバスを乗り継いでたどり着いたその住所には「美里」の名前が見当たらない4階建てのアパートがあった。気落ちしながら裏路地を歩くと、「美里」の表札のある一軒家を見つけた。

 呼び鈴を鳴らすと、白髪の男性が出てきた。朝保さんの長男、政雄さん(65)だった。

 政雄さんによると、朝保さんは父朝澤(ちょうたく)さん、母ツルさんの間に5人きょうだいの末っ子として生まれた。美里家は明治政府による琉球処分で日本に併合されるまで沖縄を治めた琉球王族の流れをくむ家系だったと聞いたことがあるという。

 「跡継ぎがいなかった美里家にツルが養子に入り、ツルの婿養子として朝澤が迎えられたようです。裕福な家で子どもの頃はかごに乗って学校に通っていたそうです」と政雄さんは話す。

 しかし、朝保さんが生まれる前に姉は1歳で早世し、12歳の時に朝澤さんも死去。2人の兄も戦争で亡くなり、生き残った母ツルさん、長男の朝貞さんと3人で戦後、鶴見に移り住んだという。

 その後、朝保さんは自動車会社の工場で経理を担当。定年まで勤め、2005年に80歳で亡くなった。

 政雄さんはここまで話すと、やり取りの中で、「みさとさん」と記者が呼ぶのをこう訂正した。

 「『みさと』ではなく、『よしざと』なんです。鶴見に来てから父が変えたそうです」

 琉球王族の流れをくむ名家の読み方をなぜ「本土風」に変えたのか。理由を尋ねると、政雄さんは困惑したように言った。

 「父は生前、沖縄にいた時のことを一切話しませんでした。私が幼い頃、沖縄で何があったのか尋ねると、何も言わずに席を立ったことがありました。鶴見に移ってから父が沖縄に行くこともなかった。だから、あなたにお話しできることはないんですよ」

琉球王族の分家「美里御殿」

 大日本青年で沖縄について誇らしげに紹介していた朝保さんはどうして「沖縄」を断ち切ったのか。その理由を知りたかった。

 後日、手先が器用だった朝保さんが貼り絵で残した美里家の家紋を、政雄さんに見せてもらった。その写真を沖縄県立博物館・美術館の学芸員にメールで送って照合してもらうと、琉球王族の分家の一つ「美里御殿(うどぅん)」の家紋だと分かった。

 しかし、それから取材は暗礁に乗り上げる。

 鶴見や川崎の沖縄県人会の名簿にある首里出身の18世帯に当たってみても朝保さんを知る人はいなかった。

 戦地に送られた兵士の情報が載る「留守名簿」のうち沖縄戦に参戦した部隊の約120冊を国立公文書館に請求し、朝保さんの名前を探したが、見つからなかった。

 那覇市内の美里姓24世帯に手紙を出しても有力な手がかりはなかった。

 そんな中、朝保さんの兄である朝貞さんの長男、理さん(65)が横浜市内で学習塾を経営していることを、鶴見の住民への聞き込みで知った。

 7月上旬、学習塾で対面した理さんは言った。「父は沖縄のことを語らなかったので詳しくは知らないんですよ」。朝貞さんは戦後、自動車整備会社を経営し、76年に65歳で亡くなったという。

 「私が小学生の頃、父は一度沖縄に行ったことがあるようです。まだ米軍の統治下でパスポートを取ってドルを持って帰ってきたのを覚えています。でも何をしに行ったかは分かりません」

「台湾防衛戦」にも参戦

 理さんの協力を得て、美里家の戸籍を取り、4人の兄弟の「戦時名簿」を神奈川県に開示請求してもらった。軍歴のほか、戦死した場合はその場所も記されているはずだ。

 戸籍によると、沖縄で生まれていると思った4人の出生地はいずれも鶴見だった。出生後に家族で沖縄に移ったのだろうか。父朝澤さんの代にさかのぼって、さらに古い戸籍を調べようとしたが、戦災で焼失していた。

 開示された戦時名簿を見ると、三男の朝正さんは44年12月、30歳の時にティモール島で戦病死、次男の朝和さんは45年6月、33歳の時にフィリピン・ルソン島で戦死していた。長男の朝貞さんは44年に中国戦線に派兵されていた。

 そして、四男の朝保さんは20歳だった44年3月15日に台湾の歩兵部隊として召集された。その2カ月後には第302連隊で台湾南部の警備に従事。「台湾防衛戦」にも参戦している。

 この頃、台湾全土で米軍による空襲があり、台湾沖でも激しい戦闘が展開されていた。

 朝保さんは45年5月には「特別補充主計下士官」として台湾陸軍貨物廠(しょう)に配属され、後方支援に回るようになっていた。

 沖縄戦ではなく、台湾で戦争に従事していた朝保さん。沖縄とのつながりがもやがかかったように見えなくなってきた。

 しかし、朝貞さんの戦時名簿の本籍地欄に目を凝らすと、鶴見の住所の横に二重線が引かれた沖縄の住所がかすれながらも書かれていた。

 「那覇市若狭町壱丁目」

 その住所を手がかりに、記者は7月末、沖縄に向かった。

【宮城裕也】

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