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戦時中の青年向け雑誌が映す 日本が太平洋戦争に向かった「空気」

毎日新聞 / 2024年8月14日 16時0分

雑誌「大日本青年」の創刊号=東京都千代田区の昭和館で2024年7月10日、手塚耕一郎撮影

 15日に79回目の終戦記念日を迎える。政府主催の全国戦没者追悼式が東京都千代田区の日本武道館で開かれ、日中戦争と太平洋戦争の犠牲者を悼む。

 毎日新聞は1938(昭和13)年4月から44年3月まで戦意高揚のための青年向け雑誌「大日本青年」を発行した。6年間にわたる全132冊をめくると、日本が戦争へと突き進んでいく空気が伝わってくる。

 雑誌は当初は月2回、43年5月からは用紙の減配で月1回の発行となった。創刊号の表紙には、富士山を背景に日の丸を胸につけて両手を上げる青年の姿が描かれている。

 その巻頭ページには当時の近衛文麿首相が登場し、人気作家の菊池寛や北村小松の連載小説がスタート。編集後記には「修養とまじめな娯楽と時局に対する正しい知識をもつていただく」と書かれている。

 趣味の楽しみ方を紹介するコーナーでは「キャンプ」「ハーモニカ」「貝の採集」などを取り上げ、「銃後の青春日記」といったタイトルの連載漫画もある。

 39年には創刊1周年記念事業として「五十年後の新東亜」の題で50年後の世の中がどうなっているのかという読み物を募集している。

 40年に入ると、趣味のコーナーも「野生植物の調理法」「正しい座り方」「慰問画の描き方」などに変化し、41年になるとコーナー自体がなくなる。

 代わって、「生きて虜囚(りょしゅう)の辱(はずかし)めを受けず」に代表される軍人向けの「戦陣訓」について解説する連載や「防空壕(ごう)の作り方」といった特集が登場する。

 表紙のイラストも41年まではテニスやバスケットボールを楽しむ青年たちの姿が描かれているが、次第に戦闘機や戦場の場面が多くなっていく。

 41年12月の太平洋戦争開戦をへて42年以降になると戦時色はますます濃くなっていく。学者の寄稿や読者の投稿も勇ましい言葉が目立つようになった。特集は「少年兵はかく戦へり」と題した少年兵らの座談会や「徴兵適齢低下」「玉砕のこころ」などもある。

 41年に始まった写真グラフには「陸軍省検閲」「海軍省許可」と付記された戦場の写真などが並び、「壮絶!ハワイ海戦」「早く飛行機を!送れ前線へ一機でも多く」といった見出しが躍る。

 44年に発行された最後の3冊の表紙は同じ絵柄の色違いで、最終号には「撃ちてし止(や)まむ」という戦意高揚の標語が載っている。

 72年発行の「毎日新聞百年史」によると、新聞界の長老だった徳富蘇峰の「必勝国民読本」を出版するために、「何か雑誌をつぶせということになった」のが休刊の理由だったという。

 毎日新聞は戦時中、事実と異なる大本営発表の「戦果」を紙面に掲載した。「大東亜戦争日誌」などを載せていた大日本青年も同様だった。毎日新聞は戦後、その反省から自らの戦争責任を検証、報道してきた。

 戦時中の雑誌に詳しい立教大の石川巧教授(出版文化史)は「ある日突然『戦争をするぞ』と上から命令があるのではなく、経済の困窮によってだんだん世の中がきな臭くなり、国民の中で空気が醸成されていく。雑誌にはその変化が微細に記録されている。過去の雑誌を読み直すことで、何が人々を戦争に駆り立てたのかを検証できる」と話す。

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