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言えなかった「死なないで」 戦艦「大和」乗る父との最後の会話

毎日新聞 / 2024年8月15日 15時30分

父親の軍隊写真を見ながら最後のやりとりを思い返す藤本黎時さん=広島市安佐南区の自宅で2024年7月19日午後5時27分、高田房二郎撮影

 「お父さんにそろそろ、戦死してほしいと思っているんじゃないか」

 夕食のだんらんで、父が冗談めかして口にした言葉を聞き、13歳の少年は黙ってうつむいた。厳しくてもユーモアを忘れない父らしい言い方だ。すぐに真顔に戻った父を見て、本当は「死なないで」と伝えたかった。しかし、「非国民」という言葉が頭をよぎり、少年はずっと黙っていた。それが父との最後の会話になった。

 太平洋戦争末期の1945年4月7日、「世界最大・最強」と称された戦艦「大和」は鹿児島沖で米軍機の攻撃を受けて撃沈した。乗組員の3332人のうち3056人が亡くなったとされる。

 元広島市立大学長の藤本黎時(れいじ)さん(92)=広島市安佐南区=の父弥作さん(当時44歳)は、旧海軍大尉として大和に乗り込み犠牲になった。大和は同年3月28日、母港がある広島県呉市を出航しており、父との会話はその2日前だった。

 山口県の農家出身の弥作さんは高等小学校を卒業後、志願して海軍に入隊。航海学校の教官や工作艦勤務を経て40年9月、呉海軍工廠(しょう)で進水式を終えたばかりの大和の装備を整える担当になり、呉に着任した。艦上勤務が多かった父の顔を、毎日見ながら暮らしたのは、この頃だけ。休日に大和の設計図らしき青い図面を卓上に広げ、熱心にメモをとっていた和服姿を思い出す。

 41年12月の日米開戦後に完成した大和は、連合艦隊の旗艦となり幾度も海戦に出撃した。父の帰宅の機会は減り、10カ月近く顔を見ないこともあった。湾を一望する自宅の庭から、艦船の中でもひときわ目立つ「大和」の雄姿が見えると、「久しぶりに会える」とうれしかった。

 44年11月、大和はフィリピン・レイテ沖海戦で激しく被弾して帰港。父の任務は、魚雷などの攻撃を受けた際に、注排水して傾斜を復元することだった。「生還できるよう頑張った。上官から杯をもらった」と、戦闘の話をめったにしない父がそう話した。

 大和が建造された当時、戦艦は海洋戦の主役と位置づけられていた。しかし、航空機が急速に進歩し、戦い方は空母と航空機による航空戦に移行する。機動力に欠け、燃料を大量に消費する巨大戦艦は「無用の長物」となっていった。

 45年になると、日を追って戦況は悪化する。近所では戦死者が相次ぎ、「元気な姿を見られるのが恥ずかしい、面目ない」と父は暗くなってから帰宅するようになった。

父も自分も戦争の加害者

 藤本さんの脳裏には最後の航海前、「日本は勝てないな」ともらした父の一言が残っている。大和は、「水上特攻作戦」で護衛機もなく沖縄へ向かった。世界最大の戦艦は米軍艦載機の猛攻を受け、2時間ほどの戦闘で海に消えた。無謀な作戦を命じた軍上層部への憤りの気持ちは消えない。一方で、職業軍人だった父、大和に乗った父を誇りに思っていた自分自身も戦争の加害者だと考えている。

 戦後、藤本さんは工事現場のアルバイトなどで家計を助けながら大学、大学院へと進み、広島大でアイルランド文学の研究者となった。物事を違った角度から見る大切さを教え子たちに説き、広島大退官後に学長を務めた広島市立大では、明治以来の軍都であった歴史を学ぶ「ひろしま論」を開講。被爆地・広島で、あえて加害の歴史に目を向けた。

 藤本さんは79年間、父との最後の会話でのみ込んだ言葉をずっと心の中でつぶやいてきた。「きっと父は、最後の航海になると家族にほのめかしたのだと思う。でも、お国のために命をささげるのが当然と考える父に、『死なないで』とは言えなかった」。今でも、13歳の自分、当時の社会を覆っていた“空気”を思い返すと、やりきれない気持ちがこみ上げる。【高田房二郎】

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