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「世界遺産」なのに地味? 佐渡の砂金山、価値の本質

毎日新聞 / 2024年8月20日 12時30分

案内してくれた本間勉さん=佐渡市西三川の旧西三川小笹川分校で2024年7月26日午前10時19分、中津川甫撮影

 「ガイドなしに来たら世界一つまらない世界文化遺産かもしれない」――。世界文化遺産登録が決まった新潟県の「佐渡島(さど)の金山」を構成する資産の一つ、西三川(にしみかわ)砂金山。登録決定直前の7月下旬、砂金山のふもとにある「笹川(ささがわ)集落」を訪ねた。案内してくれた「笹川の景観を守る会」の本間勉さん(73)に話を聞くと、意外な言葉が聞こえてきた。【中津川甫】

 本間さんの車に乗せてもらい、採掘で山の形を変えた場所などを巡った。西三川砂金山で16世紀末~17世紀初頭に導入された砂金採掘技術「大流(おおなが)し」は、山を掘り崩し、ため池の水で地層の土石を一気に洗い流し、残った砂金を取るというダイナミックなもので、国内では他に確認されていない。市によると、平安後期の「今昔物語集」に佐渡で金を掘る話があり、その舞台が西三川砂金山と考えられ、佐渡最古の金生産地とされている。

 本間さんに砂金を採掘した跡がはっきりと残っている場所として「五社屋山(ごしゃややま)」に連れて行ってもらった。

 五社屋山は江戸期の1741年の文書に記述があり、砂金山が閉山する1872(明治5)年まで採掘が続いたとされる。長期間掘られたため「山の形を大きく変えた」と五社屋山の案内板に書かれていた。

 山中では大流しの痕跡を目で確認できた。当時は①山裾を掘って崩し、水路に堤(ため池)の水を勢いよく流して余分な土石を押し流す②水路に残った大きな石を取り除く③「汰板(ゆりいた)」と呼ぶ板で水底にたまった砂金を含む砂を水中で振り分け、比重の重い金をすくい上げる――などの方法で採取した。その水路(導水路=江道、配水路、排水路)や堤の跡、山積みにされた石があちこちで見られた。ただ五社屋山は草木が生い茂る一見普通の山で、案内がなければ水路や堤の跡は見落としただろうと思った。

 「一見の観光客は『ただの山じゃん』と見て感じるだろう。『西三川に来なければ良かった』と思われないかが最大の心配事だ」。砂金山のガイダンス施設「旧西三川小笹川分校」前から、砂金山最大の稼ぎ場だった「虎丸山(とらまるやま)」を眺めた時、本間さんはこう不安を口にした。笹川集落は中山間地域に23戸の民家がある小さな農村。「世界遺産」という言葉から観光客がイメージする派手さと、のどかな田園が広がる現地とのギャップに、本間さんは頭を抱えていた。

 こうした地元の悩みを打ち明けられながら、江戸後期から閉山まで砂金山の名主(取りまとめ役)を務めた「金子勘三郎家(かねこかんざぶろうけ)」の建物も見せてもらい、かやぶき屋根の主屋に入ると、鉱山労働者(金児(かなこ))の暮らしぶりを感じることができた。

 また集落で砂金山の安全と繁栄を祈願し、1593年に建てられた「大山祇(おおやまずみ)神社」や、江戸期に役人が派遣された「金山役所跡・金山役宅跡」も見学。本間さんは要所要所で当時の生活ぶりや意義を話してくれ、歴史の奥深さを興味深く学べた。

 砂金山閉山後、鉱山労働者は砂金採取地や堤を開墾し、水路を農業用へと変えて笹川集落に残り、現在も子孫たちが暮らしている。本間さんもその一人だ。「住民同士の絆は今もあり、先祖が残してくれた遺産を後世に残す義務がある。文字や言葉で表現しにくい価値が西三川砂金山の核心なんだ」。本間さんはこう語り、地元の人々の話をじっくり聞いて砂金山の価値の本質を探ってほしいと考えている。

 観光の語源は中国の古典にある「国の光を観(み)る」で、光は文物の美や文化を指すとされている。西三川地区の光とは何か、世界遺産登録を機に改めて注目されてほしいと感じた。市は西三川砂金山のガイドツアー(90分)を31日まで1人3000円で実施している。問い合わせは佐渡観光交流機構(0259・58・7285)。

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