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谷川俊太郎さんが「苦い反省」と悔いた校歌 公害問題で手がけ直し

毎日新聞 / 2024年11月19日 18時50分

谷川俊太郎さん=東京都杉並区で2015年3月26日、小川昌宏撮影

 現代を代表する詩人、谷川俊太郎さんが92歳で亡くなった。谷川さんは三重県四日市市と浅からぬ縁があり、1963(昭和38)年に県立四日市南高校の校歌を手がけた。時は高度経済成長期。谷川さんは歌詞の中で、四日市を象徴するコンビナートを肯定的に表現したが、深刻化する公害問題を受け、15年後に変更した。谷川さんが雑誌で、「自身の苦い反省」と悔いたエピソードだ。

 同校に校歌ができたのは創立5年目。谷川さんは当時、30歳過ぎで新進気鋭の詩人だった。作曲は谷川さんの友人だった武満徹さん(故人)が担った。

 「炎をあげるスタック(煙突)が 限りない未来をてらす」

 校歌3番の出だしは最初、こうなっていた。同校の記念誌によると、ぜんそく患者らが提起した四日市公害訴訟の原告勝訴(1972年)の2年後、谷川さんが雑誌「世界」への寄稿文で「当時の私の意識の中でスタックは、いわば新しい山水に化していた。知らず知らずのうちに、学校を国家に隷属させる手助けをしていたと言えるだろう」と回顧していた。

 その一文を見て、同校は職員会議の意見交換を経て、創立20周年のタイミングで谷川さんに「校歌の改作をお願いし、快諾された」という。

 「心にひめた問いかけは 限りない未来をめざす」

 3番が差し替えられた新しい校歌は78年、20周年式典で初めて披露された。校歌の碑は今、校内の中庭に建っている。

 同校の梅原浩一校長は「谷川先生は、日本が工業化で発展していく姿を若い高校生の未来と重ね合わせたが、結果的に『スタック』が四日市公害の象徴になってしまった。その反省に立ち、生徒らの成長を願う、変わらぬ気持ちを改訂した歌詞に込められた。その思いをしっかりと生徒たちに伝え続けたい」と話す。

 市民グループ「四日市再生・公害市民塾」の伊藤三男代表は「谷川さんは、現地での取材不足だったこともあり、四日市公害という困難な状況を認識できていなかったことを後年、率直に認め反省した。詩人として勇気のいることだったと思う。生徒諸君はこうした歴史と意義を忘れずに歌い継いでいってほしい」と願う。【松本宣良】

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