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世界最大の空母「信濃」の生涯 沈む前夜に配られた「汁粉」

毎日新聞 / 2024年11月28日 7時45分

潮岬観光タワー展望台から太平洋を望む=和歌山県串本町で2024年11月22日午前11時57分、鶴谷真撮影

 今や新婚旅行の行き先は国内が7割を占めて海外を大きく上回り、それは円安の影響うんぬんと報じるカーラジオを聴きながら、和歌山県串本町の潮岬に着いた。本州最南端だ。大きな声で中国語を話すグループが写真を撮り合っている。日本人が世界の観光地を席巻した時代もあった。もっと前は、武力をたのんで大陸や太平洋に出て行った。そして第二次世界大戦、大日本帝国はあっという間に断末魔に至った。

 1944(昭和19)年11月29日未明。目的地を広島の呉から変更し、ここ潮岬を目指す満身創痍(そうい)の航空母艦があった。日本海軍の連合艦隊・第1航空戦隊に編入されたばかりの「信濃」である。満載排水量7万2000トン、世界最大の空母だった。豊田穣著「空母『信濃』の生涯」(光人社NF文庫)や戸部良一ら著「失敗の本質」(中公文庫)などに依(よ)り、その道行きをたどる。

 日本海軍には05(明治38)年、日露戦争における日本海海戦でロシア艦隊に砲撃戦で完全勝利した栄光があり、敵の射程外からより大きな砲弾を撃ち込むべしとの大艦巨砲主義が強かった。しかし「太平洋戦争」が航空戦となるのを実証したのが他ならぬ日本海軍だ。41(昭和16)年12月、空母を一挙動員して遠距離から大空襲部隊を放ち、ハワイ・真珠湾の米艦を多数沈めた。以降、大砲での撃ち合いも生じたものの、戦略に基づく海戦の勝敗は空母を中心にした機動部隊が決することになった。

 それでも大艦巨砲主義の極致たる世界最大の46センチ主砲を搭載した大和型戦艦の1番艦「大和」と2番艦「武蔵」の建造は進んでおり、開戦後に完成した。42(昭和17)年6月にはミッドウェー海戦で主力空母4隻を失い、結果的に戦争の攻守所を変えることになる。横須賀工廠(こうしょう)の第6ドックで建造中だった、後に信濃と命名される大和型戦艦3番艦は急きょ空母への改造が決まった。

 戦局はますます悪化していく。44(昭和19)年6月のマリアナ沖海戦では第1機動艦隊の旗艦「大鳳(たいほう)」が沈んだ。急降下爆撃に耐えるよう飛行甲板に装甲を施し、不沈をうたった完成間もない空母だった。足元に迫った米潜水艦の魚雷1本が命中し、航行に支障はなかったものの、衝撃で航空燃料タンクに亀裂が生じて気化ガソリンが艦内に充満した。火気厳禁が命じられベンチレーター(換気装置)を作動させるなどしたが約6時間後に大爆発を起こした。この海戦で日本海軍の航空戦力は壊滅した。

 同年10月には世界の海戦史上で最大規模のレイテ海戦。もはや連合艦隊は常道戦法を採れない。小規模な機動部隊が全滅覚悟の囮(おとり)となって米の機動部隊主力を引きつける間隙(かんげき)を突き、戦艦や巡洋艦から成る三つの艦隊がフィリピン・レイテ湾の米上陸部隊に突入するという精緻な大作戦だったが、各部隊が策応できず惨敗した。武蔵は敵艦に向けて主砲を撃つ機会がないまま空襲で沈められた。連合艦隊は事実上滅んだ。

 この直後、信濃は試運転を迎えた。既に「絶対国防圏」は崩壊し、日本本土が長距離爆撃機B29の行動半径の中にある。近海には米潜水艦が遊弋(ゆうよく)している。信濃はやむを得ず狭い東京湾内を全速航行し、艦載機の着艦テストも行った。そして瀬戸内海の呉に回航の上、残る艤装(ぎそう)を進めることになった。

 11月28日、暗くなってから信濃は浦賀水道を抜け、外洋へ出た。護衛の駆逐艦は3隻。ほどなく米潜水艦「アーチャー・フィッシュ」がこの未知の巨艦を発見し追尾を始める。信濃側も不吉な影に気付き、警報を発したり駆逐艦に捜索を命じたりした。信濃は15万馬力で速力27ノットのはずが、ボイラー12基のうち完成していたのは8基で最大20ノットだった。さらに敵潜水艦の照準を妨害する之字(のじ)運動(ジグザグ航行)を行ったため、アーチャー・フィッシュは振り切られることなく翌29日午前3時過ぎ、魚雷6本を発射。4本が右舷に命中した。

 信濃は急速に右へ傾斜する。熟練工が不足して学徒や徴用工を狩り出し、事故や病気で多数の犠牲者を出しながら突貫を重ねた信濃の工事は防御区画の気密試験を省略し、注排水訓練も不十分だった。10月の進水時には工廠のミスでドックに海水が一気に流れ込み、艦首が内壁に激突する大事故を起こした。いざ洋上で被雷すると各所で隔壁が破れ浸水が止まらない。潮岬へと変針したが朝には機関が停止し、左舷への注水もできない。駆逐艦に曳航(えいこう)させようとしたがロープが切れて失敗。午前11時ごろ、潮岬のはるか沖で沈んだ。

 信濃が呉にたどり着いたとしても、近海の制海権すらない状況で戦う戦場はなかったであろう。既に敗戦は必至だった。大日本帝国の為政者も分かっていたはずだ。国家はしばしば大義を語り、それが虚妄となっても国民を死地に追いやる。昨今の国内外の大型選挙を左右している情動の嵐こそ、そんな愚行をやすやすと許すのではないかと戦慄(せんりつ)する。戦争は容易には終えられないのだ。

 沈む前夜の午後10時ごろ、信濃では「ただ今より夜食の汁粉を配給する」と艦内放送が流れた。甘いものが手に入らない時代だけに、ドッと歓声が上がったという。その多くが亡くなってから80年。海底の死者たちは今も、私たちをじっと見ている。【和歌山支局長・鶴谷真】

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