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私を忘れないで 95歳、ある性的少数者の死

毎日新聞 / 2024年12月26日 17時0分

釜ケ崎を歩く長谷忠さん=大阪市西成区で2021年10月28日、久保玲撮影

 11月10日、1人の男性が息を引き取った。長谷忠さん、95歳。1人暮らしの大阪・釜ケ崎の自宅で眠るように亡くなっているのをヘルパーが発見した。

 私(記者)は2022年、性的指向や性自認に向き合ってきた長谷さんの半生を記事にした。その死をきっかけに改めて取材すると、記事掲載後にそれまで会ったことがなかった親類や新たな友人と出会ったことを知った。30年以上前「日本初、ゲイを描いた」として公開されたドキュメンタリー映画に出演していたことも分かった。長谷さんが生きた軌跡をもう一度たどりたいと思った。

 1929年、香川県生まれ。4人きょうだいの長男で父には本妻がおり、婚外子だった。初恋は12歳の頃、学校の男性教師だった。14歳で通信士として戦時下の旧満州(現中国東北部)へ渡り、終戦1年後に引き揚げた頃には男性にひかれることを確信した。ただ当時同性愛は病気とされた。

 親しい友人や恋人もできない中で詩を雑誌に投稿し始めた。30代半ばの時、ペンネーム「長谷康雄」として63年度の第4回現代詩手帖賞を受賞。田村隆一や谷川俊太郎らに評価された。50代、男性同性愛者とその友人、支援者らをつなぐOGC(大阪ゲイ・コミュニティ)に参加。OGCのメンバーと共に約4年間撮影されて91年に公開されたドキュメンタリー映画「らせんの素描」に出演した。

 作中で長谷さんは語っている。「12歳の時にゲイに気づいてそれはどうしようもないことだった。それで戦争中男の社会の時代で重荷を背負って生きてきてとてもしんどかった。それからやっぱり結婚も悩んだ。ゲイとして生きようと思ったけども悩んだ。結局それは女性たちをだますことであり、社会をだますことであるということで偽装結婚ということには自分の人生をしなかった。それに対して後悔はないし、独りで生きてきたけど充実感もあります。だから人から見れば寂しいと思うかもしれないけども僕自身は充実して生きてます。後悔はしてないです。後悔したって仕方がない。ゲイとして生きてきた者はゲイとして生きなければならない」

 映画を監督した日本文理大の小島康史教授(62)は「理解しようとする人には話しやすい雰囲気で、孤独ではなく陽気で社交的だった」と振り返る。一方「出自やセクシュアリティーを理由に自分の正体をさらせない、さらしてはいけないという印象もあった」。撮影当時、トランスジェンダーという言葉は一般的でなかった。「自分の心は女で男に愛されたいと話す長谷さんと、男として生まれて男に愛されたいと話すOGCのメンバーとの間で認識の違いがあり、居心地が悪そうでもあった」

 転職を11回繰り返して清掃員として定年を迎えた後は本や歌を書き続けた。半生を基にした小説を6冊、歌は80曲以上。2006年出版の本では20~30代が中心だったOGCについて「生まれた時代も育った時代も違うのだから、それは仕方がない。しかし、戦前と戦後では余りにも違いすぎた」、自身を投影した主人公は「同性愛者ではなくして」「性同一性障害」「トランス・ジェンダーであった」と書いた。

 18年、当時住んでいた東大阪市で「紙芝居劇むすび」の公演を見た。出演者は釜ケ崎で暮らす高齢者たちだった。「ずっと1人やったから、自分と境遇が似たような人たち」に親しみを感じた。公演後「ゲイですが、僕も入れてほしい」と伝えた。5カ月後、釜ケ崎へ「人生の捨てどころとして引っ越してきた」

 むすびでは自作の歌を披露する公演も企画された。「世間がおかまを笑ってる 世間がおかまをわるく言う 男がおかまをよけてゆく なんでおかまがわるいのよ からだいっぱいぶっつけて 世間の壁に体当たり」。作詞・作曲した「大阪おかま野郎」などを初めて女装して歌った。むすびのマネジャー、石橋友美さん(49)は「1人ではなく誰かを求めていた」と振り返る。「引っ越しておいでよと言われてもできる人はなかなかいない。変わろうと思っていた。最後の人生変えたかったんじゃなかったのかな」

 22年には、めいの市川康子さん(47)とむすびの事務所で初めて会った。その2年前に受け取った手紙には長谷さんの13歳下の妹である母礼子さんが連絡を取りたがっていることなどが書かれ「心配しています」とあった。男性にひかれ、結婚もせず、子供もいない自分は迷惑になると家族とは疎遠になっていた。「もう忘れてください」と返していた。

 その後は礼子さん自身が石橋さんと連絡を取り合っていたが、新型コロナウイルス禍で外出も制限され会うことができないまま21年に亡くなった。市川さんは「心配している親族がいる」ことを伝えようと家族のアルバムを持参して会いに行った。長谷さんは「来たんやね」と迎え、思い出を語り合った。その後も交流を続けた市川さんは話す。「常に何かを発していた。釜ケ崎では『康雄』じゃなく『忠』として生きてた気がします」

 新たな出会いが続く。米国人で日本で育ったボーン・クロイドさん(65)。東京で障害者支援施設の代表を務め、ゲイであることをカミングアウトしている。22年、長谷さんに密着したテレビ番組を偶然見て釜ケ崎を訪れた。交流は深まり、多様な性を祝福するイベント「東京レインボープライド2024」に一緒に参加した。長谷さんにとって初めての東京だった。参加者の多さに圧倒されながらもパレードではクロイドさんに車椅子を押され虹色の旗を振った。クロイドさんは話す。「何か行動しないと人生って変わらないんだよっていうことも教えてくれたので、先を行くロールモデルなんだと思います」

 死後、自宅からメモが見つかった。「LGBT」と題が付けられた一編の詩が診療明細書の裏に手書きされ、クロイドさんへメッセージも書かれていた。「私のことを忘れないでね。年老いた私のことを……」

 私が長谷さんと出会ったのは21年10月。取材を申し込むと応じてくれた。私は当初ゲイかトランスジェンダーか書き分けるため質問したことがある。「生まれ変われるなら女性になりたい。でも100%女になりたいわけではない」「人間は自由やで」と答えがあった。

 24年は日本で初めて性的少数者によるパレードが実施されてから30年の節目だった。同性婚を認めない現行制度は3高裁で「違憲」と判断された。政府が27年の施行を目指す世界保健機関(WHO)の「国際疾病分類」最新版の和訳では、性同一性障害ではなく「性別不合」が採用された。ここに至るまで長谷さんのような先人たちがどれだけいたのだろう。そのことを忘れないでいたい。【久保玲】

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