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平将門ゆかりの千葉・我孫子 地蔵が成田山から顔を背ける理由

毎日新聞 / 2025年1月10日 10時15分

成田街道沿いに立つ「首曲がり地蔵」。顔を背ける左(東)方向には成田山がある=千葉県我孫子市日秀で2024年11月24日午後1時47分、高橋努撮影

 JR我孫子駅(千葉県我孫子市)南口を出て最初の交差点を左折し、国道356号を行く。国道とはいえ、かつて宿場町だった我孫子の名残を見せる古道である。2キロ余を過ぎると、旧水戸街道と分岐し、道は東へ延びる。成田山へ通じるこの道を、土地の人々は成田街道と呼ぶ。

 我孫子市日秀(ひびり)の街道右手に、一基のお地蔵さまが立っている。右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持つ姿は尋常だが、穏やかな表情を載せた首を左にかしげた様子から「首曲がり地蔵」「首振り地蔵」の異名を持つ。その脇を抜けた先の村社は将門神社といい、古くから日秀の人々の尊崇を集めてきた。まつられているのは平将門(生年不詳、940年没)。日秀には将門が幼少期を過ごしたとの伝承がある。

 平将門は伝説の人である。菅原道真(845~903年)、崇徳天皇(1119~64年)とともに日本三大怨霊(おんりょう)に数えられ、その首をまつったと伝わる東京・大手町の「将門塚」は今も多くの人に畏怖(いふ)の念を与えている。

 歴史上、これほど評価が極端に分かれる人物も稀(まれ)だろう。「皇国史観」からは、天皇に反旗を翻した「逆賊」とされる一方、鎌倉幕府や徳川政権からは武門の頭目として称揚された。しかし、その人格を伝える逸話など、将門について残る史料は少なく、当時は日本の一隅に過ぎなかった関東で力を持ち、京の朝廷に逆らって「新皇」を名乗った人物――こんな概略しか語ることができない。

 その将門をたたえる「跡」が、県内には少なくない。ことに将門の本拠地だった下総国猿島郡(現茨城県坂東市)に近い手賀沼周辺には、今も地域の守護神のように将門をあがめる神社が点在する。日秀の将門神社もその一つだ。神社は手賀沼北岸の丘の上に建つ。若き日の将門が対岸から馬を駆り、沼を一気に渡ってこの丘で昇る朝日を拝んだという。将門の死後、その場所に祠(ほこら)を建てたのが起源とされる。身長2メートル近い大男だったと伝わる将門が水を切って騎乗する姿はさぞ豪快で、人々に鮮やかな記憶を残したのであろう。また、この場所は、乱で敗死した将門が家臣とともに霊となって沼を渡り、馬から降り立った所だという異説もある。

 真偽は別とし、いずれも祠を建てたのは、将門の遺臣や地域の有力者ではなく、日秀の村人たちだったという。そして今も、社はきれいに整えられ、変わらぬ崇敬を集めていることは間違いのない事実である。

 冒頭の首をかしげたお地蔵さまも、将門ゆかりのものだ。お地蔵さまが顔を背けようとするその先には、成田山がある。将門の乱に朝廷が追討の軍を派遣した際、将門調伏を祈願して開かれたのが成田山であった。このお地蔵さまは、その材質から江戸期に建てられたと推定されているが、将門の死後、600年以上を経ても、日秀の人々に遺恨の思いが濃厚に残っていたことに胸打たれる思いがする。聞けば今もなお、当地には成田山に参詣しない人がいるという。

 ここに将門の人物像の一端を見る。「逆賊」とそしられ、あるいは同族争いの一方の首領に過ぎないなどとも言われる将門だが、少なくとも領民や接した人々から愛され、惜しまれた人物だったのではないか。そしてその念は1000年の時空を超え、今も受け継がれている。将門をまつる手賀沼周辺の史跡を訪ねると、その思いは強くなるばかりである。【高橋努】

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