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諏訪湖で飛行機の氷上発着訓練、大正時代の軍事演習 御神渡りの記録

毎日新聞 / 2025年2月9日 13時15分

1917(大正6)年2月に飛来した複葉機から撮影した下諏訪の町。画面下が下諏訪駅。右手前は、竹か木材で補強された下翼(八剱神社提供提供)

 「氷の厚さ一尺五寸」――。厳寒期には厚さ60センチ近い氷で覆われた記録も残る諏訪湖(長野県)。御神渡(おみわた)り拝観に向けた湖面観察の様子を伝える「湖上御渡注進録」(注進録)には明治末期から昭和初期、氷上で乗馬や飛行機の発着訓練など陸軍の軍事演習がしばしば行われたことが記されている。

 注進録によると、初めて飛行機の氷上発着訓練が行われたのは1917(大正6)年の冬。「観覧の一般人民が、湖岸の上諏訪湖明館付近から(下諏訪寄りの)大和下までは立錐(りっすい)の余地もない数万の人出なり」(要約)と珍事を書き記している。

 2月15日、軍の複葉機2機が諏訪湖に飛来。発着訓練は17日まで行われた。甲信の山岳地帯を越え、凍結した諏訪湖上で離着陸する耐寒飛行試験が目的だったという。日本で初めて動力飛行機が飛んだとされる10(明治43)年からわずか7年後で、日本航空史ではまだ黎明(れいめい)期だった。

 御神渡りの認定と神事をつかさどる八剱(やつるぎ)神社(諏訪市)の宮坂清宮司(74)は「(諏訪湖に)飛行機が降りた話」を昔から聞いていた。拝観文書の解読を進める中で、注進録の記述に気づいた。

 貴重な写真も残っていた。各方面に問い合わせて探し、氏子で代々名主を務めた旧家から2020年、訓練当日に撮影された写真などが神社に寄贈された。飛行訓練や飛行機前での記念撮影、諏訪湖周辺の街並みの空撮写真などがあった。訓練の様子が記載された日本航空協会発行(1956年)の「日本航空史 明治・大正編」も入手した。

 宮坂宮司は「まさか当時の写真が残っているとは思いもよりませんでした。先人がつづった文書で歴史の1ページを確認できたことがとてもうれしい」と話した。

 注進録で16~17年にかけての冬は厳寒で、諏訪湖は12月22日朝と早い時期に結氷した。ただ、御神渡りの拝観式は17年2月23日で、20年2月27日に次ぐ遅い記録という。

 日本航空史には訓練について次のような内容が書かれていた。2月12日に所沢試験場(埼玉県)を飛び立った2機は甲府練兵場に着陸。2日間は強風で飛行できず、15日朝に諏訪に向けて出発した。1機は八ケ岳を越える時、下降気流に巻き込まれて急降下し、「富士見(長野県富士見町)の停車場の屋根に手を伸ばせば届くようだった」と肝を冷やした様子が記されている。もう1機は最難所の富士見高原を北西に進み、無事に着いたとある。

 待ち受ける諏訪湖上では、滑走路とするため長さ約270メートル、幅約23メートルを除雪。かんなくずや石炭がらを敷きつめるなどして氷上を整えた。翌16日は無風の好天で、十数回にわたって離着陸を繰り返した。滑らないように飛行機の車輪に縄や金かんじきをつけたり、タイヤの空気圧を低くして滑走距離を短縮したりして、得るところの多い飛行試験だったとしている。

 飛来した飛行機はどのような形だったのか。宮坂宮司は所沢航空発祥記念館(埼玉県所沢市)に問い合わせ、主に木製の骨組みで(翼に布を貼った)羽布張り構造だという。操縦席は覆いがなく、パイロットはさぞ寒さに震えたことだろう。宮坂宮司は「テレビ番組の鳥人間コンテストに出てくるような飛行機で、本当に所沢から山岳地帯を飛び越えて来たのだろうかと思う。奇跡としか言いようがない」と話した。【宮坂一則】

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