暴力絶えぬ世界に「必要な作家」 ノーベル賞ハン・ガンさんの魅力
毎日新聞 / 2025年2月11日 16時14分
韓国の作家、ハン・ガンさん(54)が昨年、アジアの女性作家として初めてノーベル文学賞を受賞した。その魅力やお薦めの作品などについて、代表作の一つ『少年が来る』(クオン)の翻訳を手掛けた井手俊作さん=福岡市=と、邦訳が出始めた頃からの愛読者である熊本市の橙(だいだい)書店店主、田尻久子さんに聞いた。
父と娘
井手さんが『少年が~』の翻訳を手掛けるきっかけは、ハンさんの父で作家の韓勝源(ハン・スンウォン)さんとの出会いだった。2015年、当時、西日本新聞文化部の記者だった井手さんは、全羅南道の長興(チャンフン)で開催された李清俊(イチョンジュン)文学祭の取材で、韓さんにインタビューする機会を得た。その際、娘について「自分とは違った感性を備えた作家だ」と目を細め、うれしそうに語った姿が強く印象に残ったと言う。帰国後、韓国文学翻訳院が公表した「翻訳支援候補作品一覧」にハンさんの名前を見つけ、とっさに翻訳者に名乗りを上げた。
井手さんは20年には、韓勝源さんの『月光色のチマ』(書肆侃侃(しょしかんかん)房)の翻訳も手掛けた。主人公は韓さんの母がモデルで、日本植民地時代の半島を生き抜いた一人の女性と激動の時代が描かれる。作中では、主人公が祖母から聞いた話として、さらにその前の時代の甲午農民戦争で虐げられ、亡くなった農民らの姿もつづられる。「故郷の地で起きた悲劇を描いたという意味で、光州事件を描いたハンさんと、父と娘で共通するものを感じる」
根源的な暴力に迫る
ハンさんは一貫して、人間が抱える暴力性と向き合い、作品を紡いできた。
重要な作品に、光州事件を題材にした『少年が~』や済州島4・3事件を扱った最新作『別れを告げない』(斎藤真理子訳、白水社)などがあるが、井手さんは、これらの作品も「現代史における暴力にとどまらず、人間の根源的な暴力の最も深い基層に降りていって書かれた」と語る。人間生来の暴力性と同時に「その美質をも凝視する力を備えた作家」と指摘。田尻さんも「読み終わった後に、本当にかすかで針の先ほどだけれど、光が見える。ずっと(暴力と相対する)物語を読んできて、最後にそこにたどり着いた時に『読んで良かった』と思えるのがハンさんの作品」と語る。井手さんは、真の美しさを描くためには「人間の本質的な残酷さと徹底的に向き合わなければならない。ハンさんはその覚悟を持って、真摯(しんし)に自身の文学的テーマを掘り下げている」と話す。
『少年が~』執筆の際にも、ハンさんは光州事件に関するさまざまな資料を読み込み、さらに900人近い人々の体験を集めた証言集にあたった。執筆前後には悪夢にも悩まされたという。さらに執筆中も、たびたび中断し、気力が戻るのを待って再び書き始めたという。井手さんも同様に翻訳を何度か中断することがあったといい、「作家と共振する感覚」を体験したと語る。
田尻さんは、ハンさんは一作ごとに「深化」し、毎回、新たな境地を切り開いていく、と話し「何か一冊薦めるなら最新作を挙げる」と言う。なかでも昨年、邦訳が出た『別れを~』は、ハンさんの「一つの到達点」だと語る。
目をつむらせない
田尻さんは、暴力が絶えないこの世界の中で、ハンさんは「必要な作家」だと言う。目を背けたくなるもの、わざわざ見に行きたくないもの、でも、見なければいけないものをハンさんの文章を通してなら「つらいけれども、読める(向き合える)」。ハンさんの美しく、的確な文章で一つ一つ積み上げられていく物語は映像的で、離れた場所にいる私たちにもその時の空気を感じることができる。そんな唯一無二の存在だとし、「(私たちの)目をつむらせないために、とても重要な作家だ」。
お薦めの一冊
ハンさんの作品で最初に手にする、あるいは、お薦めの一冊を挙げてもらった。井手さんと田尻さんは、16年に英国のブッカー賞を受賞した連作短編集の『菜食主義者』(きむふな訳、クオン)を推した。家庭が舞台で初めての読者には入りやすい。井手さんは「身近な場所を舞台に、暴力の本質に触れる文学的象徴性の高い作品」と評する。なかの一編「蒙古斑(もうこはん)」は、韓国で権威のある李箱(イサン)文学賞を受賞(05年)している。
お薦めの作品については、九州大韓国研究センター副センター長の辻野裕紀准教授(言語学)にも伺った。辻野さんは『ギリシャ語の時間』(斎藤真理子訳、晶文社)を挙げた。視力を失いつつある男と、言葉を喪失した女が主人公で、それぞれに「深い傷」を抱えた2人は、古典ギリシャ語の講師と受講生として出会う――。「喪失した『声』を母語ではない言語で取り戻そうとする出発点がまず圧倒的に面白い」と話し、自身は言語学者として「他者の言語=非母語を学ぶことは『生き直す』営為だと考えているが、まさにそのことが克明に描かれている」と説明する。本書は「人間にとって言葉とは何か」との文学的思考の本源的な問いを思索するきっかけを与えてくれると同時に、「苦しみに満ちたあらゆる『生』を肯定してくれる作品だ」と語る。
多彩な作家たち
最後に、ハンさん以外で韓国文学への入り口となるお薦め作品をそれぞれ挙げてもらった。韓国は詩が盛んな国で、辻野さんは「韓国文学に分け入るためにまず読むべき訳詩集」として『朝鮮詩集』(金素雲(キム・ソウン)訳編、岩波文庫)を挙げた。ハンさんも詩人からスタートしており、詩集『引き出しに夕方をしまっておいた』(きむふな、斎藤真理子訳、クオン)は邦訳が出ている。『朝鮮~』は、ハンさんたちより上の世代、日本の植民地時代の韓龍雲(ハン・ヨンウン)や金素月(キム・ソウォル)、鄭芝溶(チョン・ジヨン)といった文学史上、重要な詩人たちの作品が多数、収録されている。辻野さんは「文学はもとより、日本と朝鮮半島の関係について考えるための書としても一読を勧めたい」と語る。
もう一冊の『もう死んでいる十二人の女たちと』(パク・ソルメ著、斎藤真理子訳、白水社)は、日本版オリジナル編集の短編集で、光州事件をハン・ガンさんとはまた別の視角から描いた「じゃあ、何を歌うんだ」など8編を収録。辻野さんは、パクさんを「21世紀の韓国文学の先端に屹立(きつりつ)する気鋭の作家」と評する。
井手さんは、ハンさんの父祖の地、全羅南道の長興出身の作家、李清俊さん(1939~2008年)の『風の丘を越えて―西便制』(根本理恵訳、ハヤカワ文庫)を挙げる。韓国の伝統芸能・パンソリ奏者の旅芸人の父娘の物語で、「韓国の文化を知る上で重要な『恨(ハン)』を理解する入り口になるのではないか」と井手さん。「李さんは早くに亡くなってしまったが、生きていればノーベル文学賞の候補にもなっただろう」と惜しむ。現在はハンさん世代の作家が活躍し、日本でも数多く翻訳されているが、井手さんは「その礎を作った上の世代の作家の作品ももっと読んでほしい」と呼びかける。
田尻さんは「ハンさんの次に好きな韓国の作家の作品」として、ファン・ジョンウンさんの『ディディの傘』(斎藤真理子訳、亜紀書房)を推薦。セウォル号沈没事故や現職大統領を罷免に追い込んだ「キャンドル革命」などを背景にした連作小説で、「韓国文学は社会問題が個人の物語の中に入ってくる。その中でも、この小説は『喪失』についての物語で、国が違っても誰もが共通する感情を揺さぶられる物語になっている」と語る。
記者からは、韓国文学の背景や近年の作品についての理解が深まる『増補新版 韓国文学の中心にあるもの』(斎藤真理子著、イースト・プレス)をお薦めしたい。【上村里花】
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