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覚醒剤に手を出して18歳で少年院へ...思い出したのは父と同じ『医師』になる夢 "患者を断らない病院"を目指す院長となったいま「次は応援する立場になりたい」

MBSニュース / 2024年5月23日 12時48分

 非行を繰り返した少年が少年院で思い出したのは、医者という夢と父の存在。非行少年だった当時、煙たがれていた男性は、いま地域で必要とされる医師として奮闘しています。「みんなが応援してくれた。次は応援する立場に」と語る医師の“これまで”と“いま”を取材しました。

大事にしているのは「病気」ではなく「人」を診るということ

 大阪府河内長野市にある水野クリニックの院長・水野宅郎さん(46)。内科と小児科を開設していて、父の代からこの地で地域の医療を担っています。

 いま力を入れているのは訪問診療です。取材した日、訪問診療したのは70代の女性。

 (患者に話す水野さん)「どうしたの?えらいしんどそうや」

 末期がんで在宅療養をしていて、この日は肺の外側に水が溜まり、全身に倦怠感を訴えていました。

 (水野さん)「直接針を刺して抜くという方法もあることはあるけど、量が少ないと刺せないんですよ。量がいっぱいだと刺せるんですけど。少ないと肺を傷付けたりするので。利尿剤を増量するとしんどいかなという感じやな」
 (患者)「先生にお任せします」
 (水野さん)「え?お任せしてくれるの?」

 現在、水野さんら医師3人で受け持っている訪問診療の患者は約150人。大事にしているのは、病気を診るのではなく「人」を診るということです。

 (水野宅郎さん)「病気だけじゃなくて『この人、何を求めているんやろ』って考えた方が満足度は上がると思うけどな。最後の方は、医療っていうより人と人との付き合いという感じやな」

いまは患者 水野さんの“過去”を知る保護司

 次に訪れたのは、松原市に住む田中輝彦さん(84)の家です。

 (水野さん)「うーん大変やな。大変な病気やな」
 (田中さん)「いつ死ねんのかな、もう死にたいわい」

 慢性閉塞性肺疾患という病気で、肺機能が低下して常に酸素投与を必要としています。診察を終えると…

 (水野さん)「いまで80…?」
 (田中さん)「84歳」
 (水野さん)「84歳か。少年院を出てきた時はまだ60歳くらいやったんかな。20年くらい前やから」
 (田中さん)「年取りましたね。何が惨めかっていうと年取ることや」
 (水野さん)「少年院出た時は(田中さんは)しゃきっとしていたから」

 実は水野さんは10代の頃、少年院に入っていた過去を持っているのです。

 (水野宅郎さん)「シンナー吸ったりとか、シンナーからだんだん覚醒剤にいったりとか。薬物にはまってしまっていた」

 中学時代からシンナーを吸い始め、高校は数か月で退学。覚醒剤に手を出して逮捕され、18歳で少年院に送られました。少年院を出た後、医師を目指す水野さんを応援してくれたのが、当時、担当の保護司で、今は患者の田中輝彦さんです。

 (田中さん)「最初から、一緒に頑張ろうと。『将来、俺の死亡診断書を書けるようになれ』と言った」
 (水野さん)「応援してくれる人がいたのはやっぱり強いなと思いますね」

少年院生活をきっかけに医師を目指す決心「幼稚園の時の夢を思い出した」

 非行に走っていた水野さんがなぜ医師を目指したのか。転機は、1年間の少年院生活で自分を見つめ直したことでした。

 (水野宅郎さん)「自分の生い立ちを思い出したときに、自分が『医者になりたい』という夢を幼稚園の時に持っていたことを思い出したので。父への憧れというのがあったのかなという感じ。お父さんお医者さん、自慢のお父さんみたいな感じで、どっかにはあったのかなと。ずっと口を聞いていなかったけどね」

 今は亡き、開業医だった父・滋さんへの憧れが強くあることに気付き、医師を目指すと決心したのです。

 (水野宅郎さん)「少年院を出た後『医者になりたい、学校に行きたい』と父に言ったら、元々高校にほとんど行っていなかったので、『高校3年間行かせるつもりやったから。その分の学費を置いているし、3年間だけ好きにしたらいい』と(父に言われた)」

30歳で医師免許を取得 病院スタッフが語る当時のエピソード

 父と約束した3年間、猛勉強して、石川県にある金沢医科大学に補欠合格。30歳で医師免許を取得しました。当時から働く病院スタッフらは、父・滋さんの様子をこう振り返ります。

 (病院スタッフ)「喜んでいました。すっごく喜んでいました。病院を継いでくれるって。『医者になったんや』ってすっごく喜んではりました。(水野さんが少年院にいて)苦しいときには何にも言わなかったんですよ、私らには。医師になってから『こんなことあって』と言ってはりました」

 (水野さん)「兄も医者の道に進まなかったから父が諦めていたら、一番ダークホースが来たからな。いきなりダークホースが」

目指すのは患者を断らない病院「必要としてくれるなら…」

 医師になってからは富山県の病院などで循環器内科医として勤務。2018年に大阪へ戻り、実家のクリニックを父の滋さんと共同運営することになりました。2020年に滋さんが亡くなり院長を継いでからは、「患者を断らない病院」を目指しています。

 (水野宅郎さん)「非行少年だった時は、むしろ地域や町でほとんど必要とされていなかった存在なんですね。なんなら煙たがられていた感じなんですけど。昔必要とされていなかった人間が、ちょっと最近必要とされるようになったので、いくらでも、必要としてくれるなら全て応えていきたいなと」

 必要とされるなら何でもやる。新型コロナウイルス感染が広がった当初、ほとんどのクリニックがコロナ患者の診療を行いませんでしたが、すぐに発熱外来を開き、クラスター施設への往診もしました。これまでにクリニック全体で診たコロナ陽性者はのべ8000人以上にも上ります。

「ぼくを医者にしてくれた地域」能登半島地震の被災地でボランティア活動も

 さらに、今年1月から水野さんが続けているのは、能登半島地震の被災地へのボランティア活動です。石川県能登市門前町にある特別養護老人ホーム「ゆきわりそう」。約90人の利用者に大きなケガはありませんでしたが、水道管が破損して、4月中旬になってようやく水が出るようになりました。

 (利用者に話す水野さん)「熱くないです?93歳の足には見えないな。キレイやな、めっちゃキレイ」

 行っているのは足浴ボランティアです。水野さんは看護師らと被災地の病院や介護施設を訪れ、十分な入浴ができていない高齢者に対して、足を洗い、爪などのケアを行っているのです。

 (水野宅郎さん)「だいたい足をみると、清潔を保てているかどうか、あとは動いているかとか。動いていないとむくんできたり固くなってきたりするので。足が血流不足で色が悪くなったり冷たくなったり痛くなったり、あとひどい場合は腐ってきたりする場合があるので、そういうのを未然に防がないといけないので」

 水野さんらはこの活動を月に2度のペースで行っていて、今年1年は続けるつもりです。

 (水野宅郎さん)「僕が学生時代を過ごしたのが本当にこの辺りなので、恩返しができるのであれば。父が『お前のこと医者にしてくれるのは石川県の金沢医科大学しかないわ』と言っていて。いま思えば本当に唯一ぼくのことを医者にしてくれた地域」

「次は応援する立場に」の想いで…通信制高校サポート校の生徒に伝える言葉

 先週、水野さんの姿は兵庫県明石市にある通信制高校サポート校にありました。ここの大半の生徒が、いじめなどで中学時代に不登校だった過去を持っています。水野さんは生徒らに境遇は違えど「自分が心からやりたいことを見つけてほしい」と伝えました。

 (生徒たちに話す水野さん)「自分が少年院入って『医者になる』って言って、夢をかなえられたのは、みんなが応援してくれたからというのもあったので。次は応援する立場になろうと。『あれもしたい、これもしたい』と迷っている方がいたら、自分の中でいろいろ捨ててみたら、大切なものが残るかなと思います。『医者になりたい』という思いが1個だけあったら、あとは覚醒剤も別にやりたいとは思わなかったし。そういうのを1個見つけられたら良いと思います」

 一度は非行に走ったものの、父親、保護司、さまざまな人に支えられ立ち直った人生。今度は自分が支える番です。

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