「今でも会いたい...元気な息子返して」23年前『集団登校』狙いワゴン車が列に突っ込んだ うずくまる児童の傍に散らばるランドセル 7歳息子を亡くした父親20年以上経っても変わらない悲しみ
MBSニュース / 2025年1月3日 10時55分
「裕介を亡くして22年がたちますが、無性に会いたくなることが今でもあります。どこかで待っているんじゃないか…ふと、そう思う時があります」時折、目を潤ませながら丁寧に話すのは、湯浅惠介さん(60)。2002年、最愛の息子・裕介さん(当時7)を事件で亡くしました。今も、忘れることのできない悲しみや苦しみなどを語りました。湯浅さんは去年8月、京都府警の警察官ら40人を前に講演の中で「話していると、事件の日の朝に引き戻されてしまうような…」などと話しました。それでもなお、湯浅さんが事件について語り続ける“思い”とは・・・。
集団登校中の小学生の列に車突っ込む…児童ら12人が死傷
2002年1月21日午前7時40分頃、京都府綾部市の市道でワゴン車が集団登校の列に時速30~40kmで突っ込み、児童らを次々に跳ね飛ばし、11人が重軽傷を負い、当時小学校2年生だった湯浅裕介さん(7)が全身を強く打ち、死亡しました。
車を運転していた男は好意を寄せていた女性から交際を断られた腹いせに、女性の子どもがいる集団登校の列を狙い犯行に及んだということです。
男は傷害致死などの罪に問われ、2004年に京都地裁舞鶴支部は男に懲役18年を言い渡しました。男は控訴していましたが、大阪高裁から棄却され、2006年に判決が確定しました。
事件があった当日の朝、湯浅さんはいつもと変わらず登校前に裕介さんを抱き上げ、元気に出ていく様子を見送ったと話します。
(湯浅さん)「月曜日、小雨が降って本当に冷えこむ朝でした。我が家の朝は、裕介のほうが先に学校に出るので、私はいつも裕介を抱え上げて『今日も元気いっぱい行っておいで』と言って、ぎゅっとして送り出していました。その日も彼は『行ってきます!』と元気よく長靴を履くか履かんかぐらいで慌てて走って出ていきました。いつもと本当に変わらない朝でした」
裕介さんが家を出てしばらくした後、友達のお母さんが慌てて家に飛び込んできました。
「『ゆうちゃんが大変や、はよ行って!』と友達のお母さんが家に駆け込んできました。元気な子でしたから、飛び出しかなんかして、車にはねられたのか何かに当たったのかと、慌てて現場の方へいきました」
「痛い、痛い」うずくまる子どもたちと散らばるランドセル
湯浅さんが、現場に駆けつけると、道幅4~5メートルの坂道に、複数の子どもたちがワゴン車にはねられ、何人もの子どもたちが泣き叫んでいました。
(湯浅さん)「大きなバンが横側に向いているのがわかりました。そのワゴン車は12人の子の登校の列に突っ込んで止まっていました。私が現場に着いた時は、子どもが被っていた黄色い帽子とか長靴、ランドセルがあちこちに飛び散っていました。冷たい雨が降る中で、ずぶ濡れになって子どもたちが泣きながら『痛い、痛い』と道路脇でうずくまっていました」
子どもたちが苦しんでいる中、車を運転していた男はまだ車の中にいたといいます。
(湯浅さん)「目を疑いましたが、そのワゴン車には運転手が乗っていました。乗ったままタオルを頭にかけて、運転席に頭を突っ伏して身動きをしていませんでした。ドアはロックして開けないようにして、周りで大人たちから『出てこい!何してんねや!』と怒号があがっていましたが、子供を助けようとせず、ずっと突っ伏したままでした」
湯浅さんが目にしたのは、家を出るまで元気だった裕介さんの変わり果てた姿でした…。救急車で運ばれている裕介さんに何度も何度も声をかけたといいます。
(湯浅さん)「全然意識もなく、身動き一つしない。手を握っても何をしても返事をしてくれません。身体も冷たくなってきて一心不乱に妻と一緒に身体をさすって、呼びかけましたけど、一言も返事はありませんでした。病院に着いても冷たくなった手をさすりながら名前を呼び続けて。何時間も何時間もそうしましたが、とうとう裕介は一言も返事をしてくれることなく、天国へ逝ってしまいました・・・。わずか7歳です」「頭の前頭部には10センチほどのぱっくり割れた傷がありました。裕介の小さなかわいい顔や身体には、たくさんの青いあざや、傷がありました。背負っていたランドセルの肩ひもはちぎれて、黄色い傘はぐちゃぐちゃになっていました」
どうしてあの時・・・「何度も自分を責める」
湯浅さんは何度も涙をぬぐいながら、事件前に裕介さんと十分に遊ぶことができなかったことへの悔しさを語りました。
(湯浅さん)「(事件前日は)休みだったので、午前中、私とキャッチボールをして、昼は妻にホットケーキを作ってもらって、おいしい、おいしいって食べていました。昼からも『お父さんキャッチボールしよう』と言われたんですが、ちょうどそのころ資格の試験があって『試験勉強あるから遊んでられへんわ、一人で遊んでおいで』と、そういって冷たく、断りました。なんで無理してでも遊んでやらんかったんだ、なんでそれができなかったんだ、自分を責めることしかできません、いまでも遊んでやれなかったことを悔やまれます」
実は事件の少し前から、付近では不審者情報があり、保護者が登下校に付き添う対応がとられていました。しかし直接的な被害がなかったことから付き添いを中断していたといいます。
(湯浅さん)「あの時、登校の付き添いをやめなかったら、もし集合場所に遅れてもいいんやで、と言ってやっていたら、あの事件に遭わずに裕介は死ぬことはなかったんじゃないか・・・、そう思って自分を何度も何度も責めました。22年経った今でも裕介があのままの姿で、真っ赤なほっぺをして『ただいま!』と帰ってきてくれるような気がして」
この事件では児童ら12人が巻き込まれ、そのうち4人が重傷、7人が軽傷でした。しかし、亡くなったのは、裕介さん一人。お参りに来てくれた人の、何気ない一言にも傷ついてしまう…苦しい日々もありました。例えば『よう我慢しとるな、俺やったら許されへんわ、復讐しに行ってるわ』という言葉を聞くと…。
(湯浅さん)「そんなん当然そう思っています、我慢・・・しないと仕方がないじゃないですか。子どもを守れなかったとすごく自分を責めているのに、その上『俺やったらするけどお前はようせーへんのか、大切な子どもをそういうふうにされて…』そういうふうに聞こえました。『笑えるんや、よかった』この何気ない言葉ですが、心の底から笑うことはできませんし、元気なわけがありません」
2年にわたる裁判 傍聴席に座り続けるも・・・「ずっと蚊帳の外」
事件から約10か月後。児童ら12人を死傷させた傷害致死の罪に問われた男の初公判が開かれました。男は裁判の冒頭、「弁護人の退任をお願いしたい」などと興奮して申し立て、一時休廷する事態になりました。
その後も男は「わざと轢いたのではない」などと一貫して起訴内容を否認し続け、遺族や被害者家族らを愚弄するような言動や裁判所の制止も聞かずに法廷で大声を上げるなどの言動を繰り返しました。好き勝手な言動をする男を前に、湯浅さんは感情を押し殺すしかなかったといいます。
(湯浅さん)「私が事件にあったときは、本当にもう蚊帳の外だったんですね、ずっと。今は意見を法廷内で色々と言わせてもらったり、参加型みたいな形になっていると聞きますけど、被害者の親というのは第三者という見方しかその時はなかったので、傍聴席で何も言うことができません」
裁判開始から約2年間。湯浅さんは傍聴席に座り続けましたが、加害者からは罪に対する反省を一切聞くことなく、判決の日を迎えました。
京都地方裁判所舞鶴支部が下したのは、懲役18年の実刑判決。最愛の息子の命を思うと、あまりに軽すぎる判決でした。
(湯浅さん)「殺人罪で僕はやっぱり起訴してほしかったです。ただ、(事件当時乗っていたのが)車なので、車は本当に殺そうと思ってやりましたって言わないと認められない。(懲役)18年でしたかね…。短い…。裕介が亡くなったことに比べたらやっぱり短いと思うんですよ」
突然知らされた男の「獄中死」 怒りのやり場を失う
裁判の結果や加害者が刑務所でどう過ごしているか、出所時期など、被害者や遺族が検察庁から情報提供を受けられる「被害者等通知制度」。制度導入から間もない事件当時、知らされたのは“獄中で死亡”という、あまりにも突然で信じ難い事実でした。
(湯浅さん)「弁護士を通じて、どういう経緯でなぜ亡くなったのかとか、どういう生活をしていたのか、反省していたのかとかいうことを聞いてもらったんですが、一切それは(伝えられず)。死亡の事実しか伝えられません、怒りを全部犯人の方に向けていましたので、それが急になくなって、じゃあこの怒りをどこへ、という・・・すごい消化するのに気持ちの整理がつかないような状況でした。こういう風にして亡くなりましたということを教えてもらったりできたら、ちょっと明るくなるんじゃないかなと思ったりしたんですが、それも叶わずだった」
苦しむ遺族を救った”愛情” 「裕介、成人式行くで」
悲しみや憎しみ、そして怒り。月日を経るごとに込み上げてくる様々な感情に、悩み苦しんだ湯浅さん。そんな中、周囲の人の想いに救われる出来事があったといいます。その1つが、裕介さんが20歳を迎える年の「成人の日」でした。
(湯浅さん)「(みんな)仲良しで。この子が20歳になるときに『裕介、成人式行くで』って。みんな友達連れてきてくれて。そのあとの二次会にも連れていくって。(裕介の写真を)持って行ってもらって、それがその写真かな」
同い年のいとこや同級生らと成人式、その後二次会まで一緒に過ごした裕介さん。小学校卒業を迎える年には、担任の先生から裕介さんの名前が入った卒業証書をもらいました。当時も今も変わらず、裕介さんへ愛情を注いでくれる周りの人たちに、湯浅さんは助けられ、支えられたと話します。
誰もが犯罪被害者となりえる社会 20年以上経ても“願う”「会いたい、元気な裕介を返して・・・」
「物にも人にもすべてに恵まれるように、豊かに暮らせるように」そんな思いで名づけられた裕介さん。小学校の授業では「将来、大工さんになってお父さん、お母さんに家を建てる」と話していたといいます。生きていたら、30歳。
湯浅さんは、『講演すると、事件の朝に引きずり戻された気がする』といい、講演中、時に涙し、言葉を詰まらせながら必死で思いを伝えているように見えました。それでも講演するのは、亡くなった裕介さんのためにも犯罪を起こさないような社会を作っていく必要がある、という強い思いからでした。
(湯浅さん)「この事件が起こるまで私たち家族は犯罪被害に全く無縁でした、つゆほども自分の身に起こるなんて思ったことがありませんでした。社会に生きる誰もが犯罪被害者となりえる社会です。もし不幸にして皆様の周りに犯罪被害者がでるようなことがあれば、傍にそっと寄り添って、末永く心の支えとなっていただければありがたいと思います」
記者からの質問に、そう話し続けた湯浅さん。
それでもやっぱり・・・湯浅さんが今、一番願うのは。
(湯浅さん)「裕介に会いたい、元気な裕介を返して欲しい・・・」
事件から23年が経とうとしていますが、今もこの願いは変わりません。
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