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「もうやめ。次の人を助けなあかん」患者が次々と運ばれる中『蘇生中止』命じた外科部長 『命の選択』の現場にいた、当時3年目だった医師が伝える"あの日の記憶"

MBSニュース / 2025年1月10日 11時56分

 阪神・淡路大震災が発生した1995年1月17日、兵庫県の淡路島にある病院で撮影された映像には、混乱を極める中で『命の選択』を迫られる医療従事者の姿がありました。当時、3年目の内科医として現場にいた医師は、いつかまた大災害が起きた時のために、今もあの日の記憶と映像を伝え続けています。

なだれこむように運ばれる傷病者…“野戦病院”と化した現場

 神戸市内の病院に勤務する医師の水谷和郎さん(60)。震災発生当時、淡路島の兵庫県立淡路病院に勤めていました。1月17日の院内の光景が脳裏から離れることはありません。

 (水谷和郎医師)「とにかく来た人に対して対応とするしか方法がなかったですね。(搬送の傷病者が)どんどん増えていって、心臓マッサージをする人が同時到着とかがあったので。やっぱり医者も限られてる、看護師も限られている中で、これ以上増えたらな…という思いは実際ありましたね」

 その日の院内を克明に記録した貴重なビデオが残っています。

 映っているのは、1995年1月17日、なだれこむように傷病者を運び入れる医師や看護師たち。実質的に、島で唯一の救命救急病院だった県立淡路病院には、地震発生から2時間が経ったころから搬送が相次ぎました。

 あちこちで、心肺蘇生法=CPRが実施されていきます。

 【当時の映像より】
 (看護師)「もうひとり挿管!」

 (消防隊員)「建物の下敷きになっていてね…」

 (医師)「名前は?名前分かる?」

 “野戦病院”と化し、混乱を極める救急外来。医師の1人が撮影したこの映像は、発災当日の救急医療の現場を映した唯一の映像とされています。

「助けられる人を助けないかん。もう助からない人はあきらめな」

 当時、3年目の内科医で、この日は当直明けだった水谷さん。ある傷病者への心肺蘇生に加わりましたが、「救命は厳しい」と薄々感じたといいます。

 (水谷和郎医師)「ちょっと難しいなという状況にはなっていたんですが、どうしたらええんやろなと。心肺蘇生をやめた段階で、その人が亡くなることになるので、地震という理不尽な状況で、どうしたらええんやろ、やめていいんやろかというのは、自分の中ではすごく葛藤があって」

 生死の境界線を引く過酷な決断を前に生じた、ためらい。そんな時、ひとりの医師の声が響きました。

 【当時の映像より】
 (松田昌三医師)「やることやってあかんかったら、次の人を助けなあかん。あのね、いまのお話やったら心臓が止まって呼吸が止まって20分経っていますから、この方の蘇生は困難です。もうやめ。次の人に行かなあかん。やめ」

 現場の指揮をとっていた外科部長の松田昌三さんが、蘇生を中止するよう命じたのです。

 (松田昌三医師)「とにかくね、助けられる人を助けないかん。もう助からない人はあきらめな。この人もう何分ぐらいかわかる?」
 (救急隊員)「9時に現場到着してから15分程度のCPRを実施して…」
 (松田昌三医師)「やめなさい。ストップ!次の人にかかろう」

6人に蘇生中止の末『死亡診断』 “究極の決断”を下した松田医師

 緊急度や重症度に応じて治療の優先順位を決める「トリアージ」。当時はまだ社会にほとんど浸透しておらず、国内の災害で実践されたのは阪神・淡路大震災が初めてだとされています。

 1月17日、県立淡路病院では10代の2人を含む6人に、蘇生中止の末、死亡診断が下されました。

 (松田昌三医師)「とにかく助けられる人を助けねばならないと、こういうことなんですね。助けられない人を頑張って、そこに手を取られますと、助けられる人も助けられなくなる。若い人たちにその選別を任すわけにいきませんから、それは私がもうやめなさいとか、この人は頑張ってやりなさいとかそういうふうに決めたわけですね」

 究極の決断を淡々と下す松田さんを目の当たりにした時の心境を、水谷さんは、いまでも覚えています。

 (水谷和郎医師)「家族さんがいて、あの部屋には他の患者さんもおられたので、その状況で、心肺蘇生をやめますという…。言葉は悪いかもしれないですけど“ありがたい”というか、同時に、いまにもつながってるんですけど、(判断)できなかった自分が悔しいというか」

一時は目を背けていた“あの日の記憶” 再び向き合うきっかけは…

 震災発生から8年後、トリアージを実行した松田さんはこの世を去りました。

 淡路病院を離れた水谷さんはその後、あの日の記憶からは目を背けるようになったといいます。しかし、震災発生から10年目、震災を経験した医療従事者と、そうでない医療従事者との間で、災害への意識に大きな差があると痛感します。

 (水谷和郎医師)「他のスタッフにどんどん聞いていけば聞いていくほど、みんな大変な思いをしていないから、なめてかかっているというか。あのビデオを見てもらったら、どれだけ大変やったかというのが、ちょっとでも分かってもらえるかなと」

 いつかまた大災害が起きた時のために。災害医療の厳しさを少しでも知ってもらおうと、あの日の記憶と映像に向き合うことを決めたのです。

「ひとりでも災害医療に備える人が出てくれば減災に」

 以来毎年、ビデオを使って、医療の世界を目指す学生や病院関係者などに講義や講演を続けています。

 (水谷和郎医師)「CPRをすでに20分施行した13歳(の傷病者)が来ました。皆さんが病院前トリアージの担当者です。この人に対してどういうトリアージをしますか?というのが問われるのが災害医療です。黒(=死亡・救命不能)をつけるのは本当に大変です。何とかなれへんかとやっぱり思ってしまうんです。一生懸命してきたら思ってしまうんですけど。黒タグをつけないといけないかもしれないという状況が、皆さんに押しかかってくる」

 ビデオを使った講演や講義は、20年間で100回を超えました。あの日の現場に立ち会った医療人としての責任と覚悟を胸に。水谷さんの活動は、続きます。

 (水谷和郎医師)「まったくの白紙で被災したのが、後悔なんですね。これ知ってたらなぁという思いはやっぱりありますので。ひとりでも災害医療、災害に備える人が出てきたら、それで減災にはなるので」

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