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『天井からムカデ』『道は穴ぼこ』30年前に作られた"仮の街" 自治会を立ち上げて仮設住宅の環境改善に向け奔走...95歳を迎えた被災者「命を大事にしてほしい」【阪神・淡路大震災】

MBSニュース / 2025年1月17日 13時7分

 災害によって家を失った人たちが住む仮設住宅。30年前の1月17日に発生した阪神・淡路大震災では、ピーク時に約5万戸あったということです。自身も被災しながら、仮設住宅で暮らす住民の生活のために自治会を立ち上げ、行政に要望を伝えるなど奔走した男性がいます。現在95歳の男性に、当時について話を聞きました。

自宅が全壊した男性「仮設住宅に長い期間はいたくなかったのが本音」

 神戸市中央区にある市営住宅。ここに住む大本功さん(95)を、震災が発生した年に神戸で生まれた清水麻椰アナウンサーが訪ねました。

 (清水アナ)「この30年間、いろんなことがあったと思いますが、振り返ってどんな30年でした?」
 (大本功さん)「とりあえず自分の住むところができて、やっと生活ができると」

 大本さんは30年前、阪神・淡路大震災で自宅が全壊。仮設住宅で暮らしました。当時の資料を今も残しています。

 (大本功さん)「仮設住宅そのものがこれだけあった」
 (清水アナ)「ひとつの街ですね」
 (大本功さん)「一日中酒を飲んでいる人もおれば、一日中泣いている人もおれば…。長い期間はいたくなかったのが本音です」

住環境は劣悪…約1500人が暮らす“仮の街”

 大本さんがかつて暮らした仮設住宅は神戸市西区に広がっていました。西神第7仮設住宅、通称「第7仮設」は、西神ニュータウンの外れにありました。戸数は1060戸で、小さな自治体並みの規模です。

 抽選で振り分けられて入居した見ず知らずの人たち約1500人が暮らす“仮の街”。その場しのぎで作られたため、住環境は劣悪でした。当時、たまりかねた住民が自治会を作ろうと、仮設に作られたテントに集まり、話し合う様子がみられました。呼びかけたのは当時65歳の大本さんです。

 (住民※1995年)「仮設というのは元に戻るための一時期や。だから一番大事なことは、元に戻るのに、どういう条件でどういうふうにしたらいいかっていうのが一番大事」

 (大本功さん※1995年)「少なくともお年寄りの方、あるいは杖をつかれた方がまっすぐに道が歩けるように、つまずいて転ばないように、それぐらいは行政に要求しようやないかというのがまず第一歩」

 夏になると、第7仮設は40℃を超す暑さで、砂漠のように干上がりました。穴ぼこだらけの道を歩いていた目の不自由な夫婦は…

 (目の不自由な夫)「あんまり外に出るの嫌やねん、(仮設住宅に帰る道に)迷うから。1回迷ったらこんなことになるねん。道がこんなんでわかりにくいから…」

 目の不自由なこの夫婦にとって仮設での生活は苦難の連続です。また、街灯はなく、日が落ちると同時に深い闇に包まれます。

“ともに暮らす住民のために…”自治会が行政に要望を伝え改善されていく住環境

 1995年7月、大本さんら自治会は神戸市西区の区役所を訪ねました。

 【当時の様子】
 (大本功さん)「街灯は安全上の問題と防犯上の問題で必ず早くつけてほしいです。そうじゃないと本当に危ないと思います。素直な道だったらいいですけど、でこぼこだらけですからね」
 (職員)「天井から虫が落ちてくるとは具体的に…?」
 (自治会のメンバー)「ムカデが出てくる、ゲジゲジがよく出ると」

 ともに暮らす住民のために…。大本さんらは意見をまとめ、行政に要望を伝えました。

 しばらくして、保健所から殺虫剤の支給がありました。また、ひさしのなかった棟では遅ればせながら取り付け工事が始まりました。そして街灯もつき、暗く沈みがちだった心の中にも小さな光が差し込みました。

アルコールに依存する仮設住宅の住民も

 一方、このころ仮設住宅では、元の住まいで育んだコミュニティーが断絶したことで、孤独死が社会問題に。アルコールに依存する人々も増え始めました。

 酒をやめさせるため、ボランティアがアルコール依存症とみられる男性の部屋を訪れる様子もみられました。

 【当時の様子】
 (ボランティア)「お酒はどこに隠してんの?」
 (男性)「あれへん言っとんねん」
 (ボランティア)「あれへんの?」

 (男性)「ちょっとな、ものすごいな…薬をおくれ」
 (ボランティア)「どんな薬?」
 (男性)「死ぬような薬」
 (ボランティア)「そしたら、あしたまで待っておいてくれる?」
 (男性)「くれるか?」
 (ボランティア)「あした私の顔を見るまで待っておいてくれる?」
 (男性)「んー」

 仕事も将来の展望もなく、孤独です。手軽に気を紛らわせられるアルコールが仮設住宅に大きな黒い影を落としていました。

人が人として生きていくために『住民同士のつながりや快適な生活環境が大切』

 1996年3月、大本さんが市営住宅の空き部屋の抽選にあたり、1年間住んだ第7仮設を出ることになりました。

 【当時の様子】
 (大本さん)「どうもありがとうございました、本当に」
 (仮設住宅の住民たち)「寂しくなる」「寂しいけどしかたがない」

 自治会を引っ張ってきた大本さんがこの日、第7仮設を去りました。

 あのとき移り住んだ市営住宅でずっと暮らしてきた大本さん。ここでも自治会の役員を務めました。「自分だけでなく、みんなのために」という自然な気持ちからでした。

 (大本功さん)「ちょっとでも住みやすいようにしたいなと、それしかなかったです。古い住宅でも、ここに移ってきて、住むところができて、生活が安定したのが大きいですよね」
 (清水アナ)「今、自分の環境が当たり前だと思ってしまっていますが、それが自分のせいではなく地震が起きたことで一気に壊れてしまうのは恐怖ですね」
 (大本功さん)「ちょっと悔しいですよね」

 仮設住宅は、被災した人々が悲しみと不安を胸に一時をしのぐために辿り着いた“仮の街”にすぎません。人が人として生きるためには住民同士のつながりや、快適な生活環境がいかに大切かを大本さんは教えてくれました。

 (清水アナ)「毎年1月17日はどんな気持ちで迎えますか?」
 (大本功さん)「もうあんまり大きな思い出しはないです。正直言って、嫌なことはあんまり思い出したくない」
 (清水アナ)「嫌なことを思い出すよりは、前を向いていこうという気持ちですか?」
 (大本功さん)「前向きに生きたいです。自分の命を大事にしてほしい。生きていたらなんとかなるでしょう」

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