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「学研」社長は防衛大卒の異色の経歴 「0歳から100歳まで幸せにする企業」を目指す

MBSニュース / 2022年5月10日 20時48分

 教育雑誌『科学』と『学習』の付録が待ち遠しかった人は少なくないはずだ。だが、いま「学研」は医療福祉の分野を飛躍的に成長させ、会社の大きな柱になっている。その医療福祉の分野を開拓してきた「学研ホールディングス」の宮原博昭社長は、防衛大学校を卒業し、地域限定社員として入社した異色の経歴を持つ。1995年に起きた阪神・淡路大震災をきっかけにトップを目指ようになったと話す宮原社長。その訳と「学研」が目指す先を聞いた。

兵庫県にある「学研教室」を1人で担当 当時は軍人みたいな「笑わない社員」

 ―――防衛大学校の出身ですが、どのような大学生活でしたか?
 大学は寮生活で、とても規則が厳しかったです。あさ5時50分には起床してベッドを畳んで、雨の日も嵐の日も台風の日もあさ6時には全員が外で整列しなければなりません。その時はいつも上半身裸になって「オー、エー、オー、エー」と大声を出しながら乾布摩擦をやるのが日課でした。私は戦前に軍港で栄えた広島県呉市の出身で、防衛大に入学するなら戦闘機のパイロットを目指そうと思い、日々厳しい訓練に耐えていましたね。


 ―――学研では「地域限定社員」で採用されましたよね?
 そうです。兵庫県にある「学研教室」の担当をたった1人でやっていました。子どもたちの会員証を書いたり、先生から教材の注文があったら送ったりとか、鞄も送ったり、学習用のプリントの印刷をしたりとかを全部1人でやっていましたね。最初はかなりとんがった社員で、軍人みたいに笑いもしなかったです。

 ―――入社してどのタイミングで笑顔が出るようになったんですか?
 うーん...偉くなってからじゃないですかね(笑)。昔の部下に会ったら「宮原さんは怖かった」と言われました。仕事に関してはきつい指導もしてきたと思います。その点はすごく反省していますし、若気の至りだったと許してもらわなきゃならないと思っています。当時は、自分の考えを譲らない人だったんだと思います。「目がつり上がっている」とかよく言われましたから。

「社内の雰囲気がぬる過ぎ」と入社1か月後に「辞表」提出

 ―――学研に就職して1か月後くらいに辞表を書かれたことがあるとか?
 当時はちょっと景気が良い会社で、とても企業としての「真剣さ」がなかったですね。社内の雰囲気が「ぬる過ぎる」と言いますか、仕事に対していい加減だというふうに思ってしまって、見切りをつけて「会社を辞めよう」と。やはり教育って大事じゃないですか。「国防」と「医療」と「教育」ってどの国にとっても一番大事な100年の体系の根幹ですからね。「教育」を生業としている会社としては「ちょっと良くないな」と判断しました。

 ―――辞表を出したのにそれを引っ込めたのはなぜですか?
 当時の部長が私を引きとめに来てくれましてね。その時、部長のお父さまが危篤という連絡が午後5時くらいに入ったのですが、部長は「お前のことが心配だ」と言って次の日の正午の便で帰られたんです。でも帰った時にはお父さまが亡くなられていたそうです。その姿をみて「すごく気骨のある人だな」と思いまして、「部長がいる間はこの会社にいよう」と決めたのが辞表を引っ込めた理由です。

「支社の平社員の提案は受け付けない」その一言で闘志わき出世を決意

 ―――それ以降は転職を考えることはなくずっと「学研一筋」ですよね?
 阪神・淡路大震災を経験しまして、「会社に骨を埋める」と決意しました。当時は兵庫県で7000人くらいまで学研教室の会員が増えていたんですが、震災でほぼ半分の3500人くらいまで減りました。残念ながら5人くらいの会員も亡くなられました。そこで私なりに学研教室を立て直すプランを作って、東京本社に出すんですが「それは現場で考えるのではなくて、本社の事業部が考える問題だ」と言われたんです。復活プランの提案ですら「単なる支社の平社員では相手にしてもらえない」と知って、「会社で偉くなって決裁権がほしい」と猛烈に思ったんです。「出世してやろう」と。

 ―――これまでのサラリーマン人生で一番大きな転機は?
 やはり社長になった時ですね。前の遠藤社長と私は17歳も違いますし、その時の業績って20年間ずっと減収減益で来ていましたから...。火中の栗を拾うどころではなくて、当時は底なし沼に石を投げているような経営状態でしたしね。経営陣の中でも私が一番年下でしたし、結構、年上の方々の中でやらないといけなかったので。

 ―――最終的に社長を受けた理由は?
 「どうして私を社長に選ばれたんですか」と聞いたら、「お前は唯一、逃げない男だ」って言われました。いまにして思うと、男同士の先輩・後輩としてはすごくうれしい言葉でして、とても気に入った言葉になっています。遠藤前社長は、がんを患いながらも退任されるまで仕事を全うされて、株主総会の次の週にがんの手術をされたすごく胆力のある人です。そのような人からの要請なので、男らしく「頑張ります」と社長をお受けしました。

医療福祉の事業拡大 社内からは「本業の教育で行け」という声も

 ―――医療福祉の事業拡大は宮原さんが社長になられてからですよね?
 当時、M&Aを3年間凍結していまして、社内改革に専念して構造改革を進めていました。そんな時でも介護事業の分野への投資だけは年間15棟やっているんですね。まさに「一点突破」ですね。「二点」を攻める余裕はなかったですから。「0歳から100歳までの人たちを幸せにする企業になるんだ」とね。これからの「教育と医療福祉」の未来は、学研が作るんだという気概がありました。

 ―――医療福祉の分野を拡大させるのは、社内で異論はなかったのですか?
 高齢者の分野を拡充させるのは、全員が全員、賛成という訳ではありませんでした。やはり「本業の教育で行け」という人はいました。でも、日本は2025年くらいに認知症になる人が750万人と、小・中学校の子どもの数と一緒になるんですね。だから、高齢者向け事業をしっかり見据えて、少子高齢化社会の中でどう戦うか、というところで事業の拡大を決断したのは大きかったと思います。


 ―――学研の会社としての強みはどういった点ですか?
 学研は、高齢者施設の入居者に対しても学研教室の子どもたちにも、その人たちが主役で「その人たちの味方になる」という姿勢をとっています。ですから、学研教室だとお母さんから見たら「ちょっと厳しいな」と思う部分もあるかもしれませんが、子どもの自立性を作るためには、どうしてもここはちょっと我慢して、あえて成長を見守る教室になっています。さらに言えば、全国にいま1万以上の教室がありますが、1万教室が同じような教室を作るという発想ではなく、それぞれ先生の「色」が出るような教室作りをしています。

「G-1グランプリ」で社員の士気を高め底力を出させる

 ―――社長になって以降、業績を一気に回復させた一番の要因は?
 決して私1人の力ではなくて、社員のみんなの底力が一番大きかったんじゃないですかね。底力を出させるための仕組みは一生懸命に作りましたけどね。例えば、「G-1グランプリ=学研グランプリ」を開催して、社員に「新しい事業のアイデアを全部出せ」と。その中からいいアイデアには出資するというようなことをやって、会社を2社立ち上げました。

 ―――いまも良く現場に顔を出されると聞きます。
 財務の数字の「裏」にある部分は、現場に行かないとわからないと思っています。だから、いまでも積極的に現場に伺います。経営判断をする時って、単なる「PL(損益計算書)」とか「BS(貸借対照表)」の数字では判断できません。財務の数字の「裏」にあるものを読み取って「3年で黒字が出るか」あるいは「これからまだ5年かかるけど、10年先にはどのくらいの絵が描けるのか。だったらどれくらい耐えないといけないのか」という判断は、現場の社員とかお客さまを見ておかないと、数字だけで判断していたら誤った方向に行ってしまいます。

コロナ禍でも増収増益 目指すは「世界一の出版社」

 ―――「アフターコロナ」の世界はどう捉えていますか?
 弊社は幸いにしてコロナ禍の2年の間でも増収増益を続けられています。コロナの影響で、色々な分断とか、物理的には人と人との距離はどんどん離れていきましたけれど、テクノロジー的にはすごく人と人との距離は近くなってきています。今年3月、「学研上海」がオープンしたんですね。1月にはベトナムでも提携会社とオープンさせているんです。だからコロナ禍にあって、結構グローバルに攻めているんですよ。この2年間で起きた変化は、たぶんもう元には戻らないと思いますし、新しい秩序が始まると思いますので、コロナが収束したあとを見据えて着々と準備をしています。


 ―――社長としての夢は?
 世界一の出版社にしていきたいというのはあります。出版物を出すだけが出版社じゃなくて、出版物で物足りない場合は先生を付けるとか、出版社の販路を利用して介護事業を手掛けるという形で多角経営は続けていきたいですね。ただ、出版社という軸、つまり「学研ツリー」というこのツリーは絶対にぶれずに一日も早く世界で戦える企業にしていきたいですね。

 ―――最後に、宮原社長にとってリーダーとは?
 過去を受け入れ、現状に満足せず、未来に挑む。この3点はリーダーの条件だと思っています。


■学研ホールディングス 古岡秀人が1946年に創立。教育雑誌『学習』と『科学』を発行、1979年のピーク時には約670万部を販売。2010年に休刊したが、今年7月に復刊する。従業員2万人、売上高1500億円。全国に約1万6000の学習塾を展開。

■宮原博昭 1959年、広島県呉市生まれ。1982年、防衛大学校卒。1986年、学習研究社(現学研ホールディングス)入社。2003年、学研教室事業部長。2009年、取締役。2010年、社長就任、現在に至る。

※このインタビュー記事は、毎月第2日曜日のあさ5時30分から放送している「ザ・リーダー」をもとに再構成しました。
 『ザ・リーダー』は、毎回ひとりのリーダーに焦点をあて、その人間像をインタビューや映像で描きだすドキュメンタリー番組。

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