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<テレビの礎はどこに行った?>かつて巨大芸能プロダクション「ナベプロ」と戦争をして勝ったテレビマンがいた

メディアゴン / 2015年6月10日 7時10分

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

* * *

かつて、巨大芸能プロダクション「渡辺プロダクション」からのキャスティングをテレビ局全体の方針として絶つ、という「快挙」 を成し遂げた男がいた。このことを多くのテレビマンに知っておいて欲しくてこの一文を書く。

男の名は・・・と言っては失礼になるだろう。テレビマンとしては大先輩の日本テレビ制作局次長(当時)井原高忠氏である。以下、氏の語り降ろしである(「元祖テレビ屋ゲバゲバ哲学」2009年 愛育社)から引用する。

井原さんは、昭和4年生まれ。実家は三井財閥の分家である。戦前戦後を通じてアメリカ映画に熱中し、フレッド・アステアのタップ映画や、ローレル&ハーディの喜劇映画などから影響を受けた。ウェスタンバンド「チャックワゴン・ボーイズ」を結成、後の「ワゴンマスターズ」には、ホリプログループ創業者堀威夫や小坂一也が在籍した。慶応大学を経て日本テレビ入社。日本テレビにはこうしたジャズ屋さんや、新聞社から嫌々転籍してきた局員が多くいたが、井原さん自身は朝日新聞社創業家の村山家と姻戚だった事から「コネ入社」したという。

井原さんの番組作りの元はすべて徹底した「アメリカのショウ番組の移植と、その日本的な進化」である。『光子の窓』『九ちゃん!』(ペリー・コモショウ)『巨泉×前武ゲバゲバ90分!』(ラーフ・イン)などなど。もちろんパクリではない。徹底的な換骨奪胎である。今なら、番組フォーマットの移植とみなされるかも知れない。

この点ではトヨタ自動車の豊田喜一郎氏を思い出す。豊田氏は輸入したシボレーを歯車のひとつまで分解し徹底研究、そこから、部品ひとつまで国産で製造、トヨペットを作り上げた。

この井原さんの奮闘がまた大変興味深いのだが本題ではないので先に進む。

1973年(昭和48年)当時、渡辺プロダクション、通称「ナベプロ」はテレビ界全体で絶大な力を振るっていた。ドラマは「時間ですよ」、特撮は「仮面ライダーV3」の時代である。この時…

 「日本テレビは、2年前にスタートさせた『スター誕生』で新人を発掘し、子会社の日本テレビ音楽に出版権を持たせると同時に、スターの卵を各プロダクションに分配し『紅白歌のベストテン』で、ブレークさせると言う、スター・メーキングシステムを確立しようとしていた。そんなとき、渡辺プロが『紅白歌のベストテン』の裏番組で新人発掘の歌番組制作をスタートさせる。渡辺プロ所属のタレントが『紅白歌のベストテン』に出演しなくなるのを危惧して、交渉しようとすると、渡辺プロ側は、日本テレビの方に放送日を変えるよう求めてきた」

放送日を変えろという要求はテレビ局にとっては独立性を担保する大事な「編成権の侵害」である。不当な圧力である。井原さんは次のように言う。

 「裏に新人発掘の番組をぶつけて来るって事は道義的におかしい。それなのに、そっちがやめればいい、と言ってくるようでは、どうやっても理屈が通らない。だから、僕は、怒った、それだけの話よ」
 「出演者とテレビ局の関係は、こっちが『出ていただいている』って言うと、向こうが『出していただいている』というのが理想。そのバランスの悪いのが一番よくない」
 「ナベプロ戦争っていうのはそこから始まったわけです。僕の考えでは言えば、プロダクション側が偉そうに出てきたのが発端だから『これじゃあ、けしからん』と言うことで始まっちゃったんですよ、戦闘が」

井原さんの頭の中におそらくアメリカのマネージメントシステムのこともあったのだろう。アメリカでは、番組や映画や舞台ごとにアーティストが、エージェントと契約を結び、エージェントはアーティストの利益が最大限になるようにプロデューサーと交渉し努力する。

アーティストはその対価を払う。エージェントは、アーティストの価値が高まるような仕事を探し、そのイベントごとに個別にアーティストと接触する。

日本のプロダクションは興行からスタートしたせいもあって、所属芸能人を独占する傾向が強い。

1960年代から1970年代にかけては「渡辺プロなくして番組は作れない」と言われるほどの「独占状態」であった。ハナ肇とクレージーキャッツ、ザ・ピーナッツ、ザ・ドリフターズ、ザ・タイガース、沢田研二、布施明、森進一、小柳ルミ子、天地真理、きら星の如きスターが居並ぶ。

これに、井原さんは反旗を翻したのだ。

 「(ナベプロを使わないというのは)今で言えば(2009年当時)バーニングもジャニーズも無しって話」
 「でも僕は完全に負けそうだったら絶対やらない。勝つか負けるか分からない場合は、勝つと決めて始めちゃう。あのときは、勝ちそうな気がしたんだろうな」
 「負けるって事は、番組がつぶれるってことだけれど(中略)僕がいなかったら、ああそうですかって『紅白歌のベストテン』も違う曜日に移したでしょ。そうすれば、ナベプロの人も出せるし。八方円満に収まってるはずですよね。一番簡単。放送局がプロダクションに負けた、と言うことですからね。僕は放送局の総司令官として指揮を執ってやってる以上、負けたくないですからね。ここ一番やったわけです」

『紅白歌のベストテン』をやめればいいと言う渡辺プロに対し、井原さんは『もうお宅の歌手はいらない、その代わり、やらせてあげようと思っていた枠もあげない』と宣言。渡辺プロがつくるはずだった枠で『金曜10時!うわさのチャンネル』をスタートした。

筆者は、この番組の最後の頃に、使い走りのコント作家として端にぶら下がった。だから井原さんの姿は遠くから雲の上の人、レジェンドのテレビマンとして遠近法のずっと向こうに見ただけである。

井原さんのような考え方は、きちんとは今のテレビ局には伝わっていない。各テレビ局とも、よかった時代の礎をつくった人の気持ちは伝わっていない。

フジテレビの礎をつくったのは、社員ではなく制作プロダクションのディレクターから社員化されて入った玉石混淆のテレビのゲリラたち。TBSの礎をつくったのは、自由にものをつくるのが一番大切だと分かっていて、会社員であることを一番さげすんでいた人たち。

テレビ朝日は…

テレビ東京は…

井原高忠氏は51歳で日本テレビ制作局長を再議の辞職。アメリカの永住権を取って移住した、2014年死去。日本のテレビ界は偉大すぎるテレビマンを失った。

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