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<「政策芸術」はプロパガンダ>権力による「芸術の政治利用」は芸術家と芸術を愛する人々に対する侮辱

メディアゴン / 2015年6月29日 7時0分

榛葉健[ テレビプロデューサー/ドキュメンタリー映画監督]

* * *

 「沖縄の新聞はつぶさなければならない」
 「マスコミをこらしめるには広告料収入をなくせばいい」

といった発言の連続で、強い批判を浴びている、自民党若手議員の「文化芸術懇話会」。安倍首相に近い議員たちが多い彼らの設立趣意書によると、芸術家との意見交換を通じ、

 「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」

なのだとか。

芸術とジャーナリズムに携わる身として、はっきり申し上げておきたい。「政策芸術」なんて言葉は、ない。その上で、彼らの主意に沿って考えると、この造語の意味は、

「自分たちの《政策》を推進するための《芸術》」。

つまり、この団体は「プロパガンダに芸術を利用する」ことを目指している。芸術を侮辱する、何とも短絡的な思考。《政策》のために《芸術》を利用した時点で、その表現は芸術ではなくなる。だから「政策芸術」などというものは存在しようが無い。

例えば、どんなストーリーでも最後に「◯◯様万歳」となるような国策映画を、筆者は「芸術」とは呼ばない。最近で言えば、イスラム過激派が作った宣伝ビデオはいかに高度なCG技術を使っていても、芸術とは到底言えない。これらは単なる、政治の「道具」でしかない。

芸術のありようを分かっていない、トンチンカンな政治家たちが語る《ゲイジュツ》論。「国威発揚」のための音楽、映画、芸術・・・。彼らの思考が、戦前の日本やナチスをはじめ、今も存在する全体主義の国家観と重なる。

芸術とは、作者ひとりひとりがさまざまな制約から解き放たれ、自己の《生》や《美意識》と向き合いながら、心の奥深くにあるものを自分の人格をかけて表出するものだ。芸術を受け取る人の側から見ても、そうして生まれた作品に対して「いつでも」「自由に」受け留めることが保証されるべきであって、芸術家と受け手の“神聖な信頼関係”の間で、政治が介入するようなことがあってはロクなことがない。

それは、宮廷音楽や茶道の世界など、経済的な裏づけの無い「芸術」を庇護するために、かつての権力者がパトロンになっていたのとは、意味が違う。

権力を持つ者が「芸術を政治に利用する」などと発想すること自体が、すべての芸術家と芸術を愛する人々に対する侮辱であり、民主主義に対する冒涜であると、この際、言っておきたい。

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