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ドキュメンタリー「女たちの赤紙」とドラマ「女たちの赤紙」を同じ日に見て。

メディアゴン / 2015年8月6日 7時10分

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

* * *

小説は嘘である。フィクションである。作り事である。創作物である。誤解を恐れずに言えば、何らかの感情を揺さぶることを目的に書かれたエンターテインメントである。

時代小説と歴史小説の区別がある。時代小説は時間設定を借りただけであとは作家の想像で、どんな嘘を書いても自由である。歴史小説はそうではあってはいけないとされる。史実を書く。取材して史実を書く。吉村昭はこのタイプの小説家である。

吉村昭の「生麦事件」や「戦艦武蔵」は、綿密な取材によって書かれている。しかし、取材では、すべての経過を事実で埋めることは出来ない。吉村さんはそこが作家の楽しみであると言う。取材で埋められない事実を、作家の想像力と創造力で埋めるのが「何よりの楽しみ」だという。

時には取材の結果「書こうとした事実」にとって「邪魔な事実」が出てくることがあるそうだ。そのとき吉村さんは「邪魔な事実を切る」と随筆で述べている。吉村昭さんは小説家なのである。

司馬遼太郎も取材によって書く作家だと言われる。産経新聞の記者出身であることも影響しているのだろうか。「竜馬がゆく」や「坂の上の雲」は、取材によって書かれた小説だ。筆者は司馬さんより、吉村さんの小説が好きだが、それは、司馬さんの小説に「作りの部分」の多さを感じてしまうからだろう。

司馬さんの考え方は「司馬史観」と言われ、広く知られている。司馬さんの歴史物は、上に立ついわゆる歴史上の人物が時代をつくったと言うことになっていることが多いので、わかりやすいとも言える。

それに対し、歴史を作った人として市井の人、身分の低い人を取り上げる小説家が藤沢周平である。藤沢さんは「たそがれ清兵衛」のような歴史小説も書くが、「回天の門 草莽崛起の人 清河八郎」等の時代小説も書く。「創作ばかりしていると淡々と事実を書きたくなる」のだそうだ。

もう一人、筆者の大好きな作家は山田風太郎である。

時代伝奇小説作家というくくりでどうだろう。山田さんは史実をきちんと背景として用いて「実在の人物たちが、もしも、意外な場所で出あっていたら」と言う手法でジグソーパズルのピースを、ものの見事に物語にはめ込んで大嘘をこく。

上記の小説家の中で、まあ、小説家らしい小説家として僕がイメージするのはやはり山田風太郎である。「明治断頭台」は、維新のオールスターが虚実を綯い交ぜて登場する山田風太郎の最高傑作である。

さて、「ドキュメンタリー」と「ドラマ」の話である。

テレビドラマは嘘である。フィクションである。作り事である。創作物である。誤解を恐れずに言えば、何らかの感情を揺さぶることを目的に映像化されたエンターテインメントである。

一方、ドキュメンタリーは、真実である。真実でないものを入れると「ヤラセ」と糾弾されて社長が辞めたりするジャンルに属している。

なぜこんなことを考えたかというと2015年8月2日のTBSで、興味深い二つの番組を見たからである。関東地方の人しか分からない番組編成であるかもしれないことをお断りしておく。

午後2時からは1時間のドキュメンタリー「女たちの赤紙 白衣の天使が見た戦場の真実」、夜9時からは2夜連続のTBS60年企画長時間ドラマ「レッドクロス 女たちの赤紙」つまりタイトルは同じである。扱っているテーマは「歴史に埋もれた戦争の真実、赤十字の従軍看護婦にもたらされた赤紙と戦場での現実」

つまり、同じテーマを「ドキュメンタリー」と「ドラマ」で迫った意欲的な企画という判断も出来る。

でも、見た限りでは、そういう番組宣伝はしていなかったので、この判断は間違いだろう。「ドラマ 女たちの赤紙」の方は、松嶋菜々子演じる従軍看護婦が主人公の大河ドラマという趣であった。

同じテーマで「ドキュメンタリー」と「ドラマ」をやるときの両者の幸せな関係というのはどういうことだろうか、と考えてみる。「ドラマ」を主に考えたときは「ドキュメンタリー」での真実の取材を「ドラマ」にエピソードとして生かすことだろう。「ドラマ」に深みが出ると言うことになる。

数少ないスタッフで真実を徹底的に取材するには時間が必要である。大量の人員を投入してやれば短期間に出来るかも知れないが、「ドキュメンタリー」の取材は人間関係を築くことから始まるから、そう、簡単には行かないのが現実だろう。

「ドキュメンタリー」を主に考えたときは、どうなるだろう。これは実は、考えづらい。「ドキュメンタリー」は基本的にテレビでは視聴率を取らないソフトとみなされているからだ。

もう本物の「ドキュメンタリー」は、テレビでは出来ない。スポンサーや視聴率に左右される中では「ドキュメンタリー」は出来ない。自分で金を集めて映画でつくるしかない時代に来ている。と話すドキュメンタリストは多い。

いわゆる耳目を集めるテーマを選んだノンフィクション作品ならば、テレビでも出来ると言うべきか。筆者は原一男監督の「ゆきゆきて神軍」が、今まで見たドキュメンタリーの中で最高のものであると判断しているが、この作品こそが「ドキュメンタリー」なのであって、あまたのノンフィクション作品とここで言う「ドキュメンタリー」は同様のジャンルではない。

「ドキュメンタリー」が視聴率を撮るために「ドキュメンタリー」に「ドラマ」を織り交ぜると言う手法が開発された。今も流行っているのかも知れない。この場合「ドキュメンタリー」に挿入される「ドラマ」は、ワイドショーの再現ドラマに堕してしまわないように腐心することが必要である。

そのための工夫としては以前は「台詞を言わせない」「顔を具体的に撮らない」などの手法がとられたが、今は名のある役者を起用し、きちんとセットを造りいわゆる「本格ドラマレベル」の撮影を行うということが多くなった。この時、僕はあるジレンマに襲われる。

「ドキュメンタリー」は真実から外れないのは当然だが「ドラマ」で描くしかなかったシーンは、どこまで真実を反映しているのか。反映しなければならないのか。どこまでドラマ的誇張をしてよいのか。

その答えはまだ出ていないが、こういったものを制作しているものの一人としては「ドキュメンタリー」の中の「ドラマ」を、いろんなハザードを乗り越えて「興味深く造る」ことで、誠意を見せることくらいしか思いつかないのである。

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