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<東京五輪の成否にも影響?>新国立「聖火台」問題はエンブレム騒動と酷似する危険な兆候

メディアゴン / 2016年3月7日 19時29分

<東京五輪の成否にも影響?>新国立「聖火台」問題はエンブレム騒動と酷似する危険な兆候

藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

* * *

東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムとなる新国立競技場で、「聖火台」の置き場がない状態で設計されていたことが今更になって問題になっている。

「大きな競技場なんだから、設計やデザインが狂わない程度に、ちょこっと組み込んだらイイんじゃない?」と感じてしまうが、問題はそう簡単ではない。

まず、聖火台の設置には国際オリンピック委員会(IOC)により、「全観客から見える位置に設置」という規定が定められており、その設置場所にもIOCの承認が必要だ。

一方で、取り下げとなったザハ・ハディド氏に代わり採用となった隈研吾氏の設計案(A案)では、木材がふんだんに利用されているため、消防法上の問題からも、競技場の上部に聖火台を設置することは難しいという。

大会組織委員会は聖火台の設置について、政府や事業主体である日本スポーツ振興センター(JSC)へ事前に伝達済みだとしている。しかし、当のJSCはそういった要望は事前に聞いていないとしたり、「自分たちは競技場を作る立場で、聖火台は大会組織委員会が検討、設置」という反応。

そうかと思えば、東京都・舛添要一知事は「聖火台の設置場所はJSCが考えていると思っていた」と発言したり、大会組織委員会・森喜朗会長が「一番悪いのは馳浩文科相と文部科学省」となじり始めるなど、責任のなすりつけあいになる始末だ。

つまり、「なんでいまさら?」といった愚かすぎる議論から、「言った、言わない。お前が悪い、俺は悪くない」という悲しすぎる議論にまで病状は進行している。

設計者である隈研吾氏にいたっては、NHKの取材に対して、次のように答えている。

 「聖火台は『どこにでも置ける物』だと思っている。演出家が決まらない今の段階で大騒ぎするよりも、開会式の演出が決まったときに議論すればいい」

確かに、一見、正論であるようにも聞こえるが、この発想は、エンブレム騒動で佐野研二郎氏が巻き起こした空前の「炎上」にもつながる危険性を内包しているように思う。しかも今回はメインスタジアムが舞台であるだけに、東京オリンピックの成否にも大きく影響する。

後付けの言い訳であれ、それを「どこにでも置けるから問題じゃない」という隈氏の発想には、トラブルを生み出す本質的な問題があるように思う。

そもそもオリンピックの象徴である「聖火」とそれを安置する「聖火台」の置き場所などは、誰に言われなくとも、最初期の設計段階から重要事項の一つとして組み込まれるべきものではないのか? 不採用だった「B案」(伊東豊雄氏案)には、しっかりと聖火台は設定されている。

聖火によって象徴され、世界中アスリートたちがしのぎを削るオリンピック。その本来の意義や目的を考えれば、メイン会場の設計には、聖火や聖火台が不可欠である。そのことが想像できなかったとすれば、信じられないほどの想像力の欠如だ。オリンピックに本来期待され、求められているものとの大きな乖離も感じる。

しかも、「(開会式・閉会式の)演出家と演出が決まってから議論すればいい」という発言に関しては、巨額の税金を投入して行われる大事業の担当者の発想としても理解に苦しむ。

隈研吾氏の建築家としての能力やその設計は素晴らしいものであろうが、自分たちが設計しているものが、「オリンピック・パラリンピックを成功させるためのパーツ」であるという意識が抜けているように思えてならない。

新国立競技場という「作品への想像力」は溢れているが、オリンピックを成功させるための「公共的な想像力」は欠けているのではないか。隈氏(や、オリンピック事業関係者たち)は巨額の税金を使って、いったい何を作っているのか?と。

最も懸念されることは、五輪エンブレム騒動と同じ行程で過剰な「炎上」をしてしまう危険性だろう。すでにザハ・ハディド氏の設計で一度、取り下げが行われているが、一部報道によれば、隈氏デザインの変更も視野に入っているという。

この一連の流れ見て、五輪エンブレム騒動を思い起こす人は少なくないはずだ。エンブレム騒動と現象も行程も問題点も酷似する。

筆者は、五輪エンブレム騒動の流れとその「炎上」の過程について、拙著「だからデザイナーは炎上する」(中公新書ラクレ)にて詳述したが、そこでは以下のようなフローチャートを持ちいて説明した。

[図:藤本貴之「だからデザイナーは炎上する」(中公新書ラクレ)より]

エンブレム騒動で佐野研二郎氏が陥った「炎上」は、専門家の立場とその狭い視点から、一見して正論と思える反論をし、理解を求めようとする説明(釈明)を試みたことで、それが結果として次々と新たな問題や疑惑を発生させ、反証されたことが要因だ。

庶民感覚から乖離した当事者(専門家)や関係者たち(狭いコミュニティ)の「正論」がかえって退路を断たせ、炎上を加速させていったのである。

エンブレム騒動と聖火台問題の共通点は、オリンピックに取り組むという「当事者意識の欠如」と「庶民感覚からの乖離」だ。オリンピックを盛り上げるためのパーツでしかない競技場やエンブレムを作ることが、専門家たちや関係者によって自己目的化され、一部の人たちの自己満足(と第三者には見える)になっているのではないか、という不信感でもある。

大騒動となった五輪エンブレム騒動と、まったくいっても良い失態を、東京五輪の関係者たちは、再び新国立競技場でも犯そうとしている。

「何のために、誰のために2020年東京オリンピック・パラリンピックを開催するのか?」ということ自体が、大きく揺らいでいるように思う。

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