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<舛添辞職「炎上」の要因>舛添氏はショーンKや佐村河内と何が違うのか?

メディアゴン / 2016年6月22日 7時30分

藤本貴之[東洋大学 准教授・博士(学術)/メディア学者]

* * *

東京都知事を辞職した舛添要一氏。一連の問題の深刻さは否定できないものの、一部では、マスコミを中心とした舛添氏への加熱した批判的報道に対する「批判」もある。

6月16日に放送されたBSフジ「プライムニュース」に出演した元東京都知事・石原慎太郎氏は、キャスター・反町理氏の「これは辞任にまで至ることだったのか?」という問いに対し、次のように述べている。

 「(マスコミは)ちょっと弱いものイジメ、はしゃぎすぎだと思う。連日あれだけの報道をするほどの対象ではない」

舛添氏への政治家としての人格や適性の是非、あるいは倫理的責任や法的な責任追及の有無はさておき、今回の舛添騒動がここまで加熱し、「炎上」した要因はどこにあるのか。本稿では、今回の騒動がかように「炎上」してしまった原因について考えてみたい。

【参考】自ら「炎上」へと突き進む?舛添都知事の「理論的な釈明」

政治資金の私的流用や税金を使った豪遊などがそもそもの元凶ではあることは言うまでもない。しかし一方で、上述の「プライムニュース」のように、「この程度の公私混同をやっている政治家は多いのではないか」といった立ち位置や反応は少なくない。つまり、納税者の多くが、

 「(バレてないだけで)みんな同じようなことやってるんでしょ?」

と思っているわけだ。そもそも本来は「ありふれている(であろう)政治問題」であったわけだ。それでも、今回の騒動がここまで激しい非難へと「炎上」した背景にあるのは、舛添氏によって繰り出された数々の釈明や反論の方法にあったように思う。

舛添氏による反論や釈明の特徴は、ほとんどの指摘に対して、いちいち「理論的な釈明」をしていたことだ。これは、五輪エンブレム騒動における、佐野研二郎氏やその周辺、組織委員会や審査委員会の関係者たちの自滅した挙動とも重なる。

舛添氏のような「理論的な釈明」が炎上を誘発させる危険性について、筆者は騒動の発生当初から、五輪エンブレム騒動とも重ね合わせて指摘していた。5月14日に筆者は「自ら『炎上』へと突き進む?舛添都知事の『理論的な釈明』」にて、次のように書いた。

 <以下、引用>法的に問題があろうがなかろうが、それとは全く別次元で「炎上」する危険性がある【中略】「炎上」とは、理論的な説明によって正当性を主張しようとすればするだけ、さらなる反発や反証を生み、追い込みが加速するという基本的なメカニズムをもっている。そういった観点から今回の舛添氏の会見を見ると、「自ら進んで炎上させたいのか?」と思わせるほどに、典型的な炎上パターンとなっている。【中略】今後、舛添氏に対する様々な情報が暴かれ、揚げ足取りやこじ付け、言いがかりを含めた様々なネガティブ情報が発掘される可能性は高い。【中略】「理論的な釈明」によって、自己の正当性を証明しようとしたが故に、舛添氏は「本当の炎上」へと突き進んでいるように思えてならない(http://mediagong.jp/?p=17153)<以上、引用>

筆者の予測のとおり、舛添氏は最初の記者会見以降に展開した反論や釈明の数々により、「自ら炎上」に突き進んでしまった。

例えば6月10日に開かれた都知事定例会見では、政治資金で中国服を購入した理由を問いただした記者からの質問に対し、次のような理論で釈明をした。

 「(書道で国際交流しているが)柔道をやっているので肩に筋肉があり書道がしづらい。しかし、シルクの中国服だとスムーズに腕が動く」

また、家族と鑑賞したコンサートに公用車を利用したことが公私混同ではないか、との指摘に対しては、

 「都知事として家族とともに招待されたので公務だった」

という反論をした。いづれも違和感と無理やり感に溢れており、納得する納税者は少ないだろうが、一方で、反論としては理論的であり、「ちゃんと回答」できてはいる。少なくとも、突飛とはいえ論理破綻や返す言葉なく黙るような状態にはなっていない。

つまり、その心象や効果はさておき、議論としては反論できており、負けてはいないのだ。しかし、そのような議論テクニックを多用した「理論的な釈明」こそが、炎上を加速させる最大の燃料となった。

その反論や釈明が理論的であればあるほど、その主張が破綻すれば、そこから他の全ての信頼性が失われ、人格否定にまで至ってしまう。今回の舛添氏はその「炎上のフォーマット」に見事にハマってしまっている。

例えば、舛添氏による「中国服は書道に適している理論」や「都知事としての招待は家族行事も公務理論」などの必死の釈明の理論化は、残念ながら、より冷静で理論的な反論がいくらでも可能だ。

前者であれば、「シルクに肌触りが似ている安価な化繊のシャツを近所の洋品店で買えば良い」などの反論が容易に思いつく。

また後者であれば、遊び友達とディズニーランドに行っても、一緒に行く友達に「都知事として家族同伴で来て欲しい」と言わせ、それを「招待である」とすれば、公用車を使えるのか? といった指摘がいくらでも思いつく。

筆者が予測したとおり、舛添氏は自ら「炎上」への突き進み、都知事辞職へと至った。「理論的な釈明」が、結果として舛添氏を「これ以上反論できない窮地」へと追い込んだ。釈明することなく素直に自らの非を認め、追撃的な批判や粗探しを止めたショーンK氏や佐村河内守氏とは大きな違いだ。

【参考】<なぜ「炎上」は起きるのか>五輪エンブレム選考に見る「日本のデザイナーは勘違いで時代遅れ」

今後しばらくは舛添氏の挙動に対する批判や反論、そして「炎上」は繰り返されるだろう。この構造は五輪エンブレム騒動で佐野研二郎氏およびそれを囲む組織委員会、エンブレム審査委員会が陥った状況と酷似する。

法的な妥当性や専門的見地からの正当性を理論的に展開した結果、エンドレスな反論と批判を生み、あらゆる主張を覆すエビデンスが発掘された(それが例えこじつけであれ)。完膚なきまでに佐野氏は退路を断たれ、エンブレムが白紙撤回された今なお、その嫌悪は続いている。

その是非はさておき、今日、ネット世論が着火となって、リアルな世論や民意を形成してしまう流れは否定できない。ネット炎上とリアルメディアでの批判的報道やそこからの世論形成が、表裏一体になりつつあるのが現実だ。そして、その初動であるネット世論の最大の着火要因のひとつが当事者たちによる「理論的な釈明」に他ならない。

どんなに頑健に構築できているような理論も、それを突き崩したり、粗を探したり、揚げ足をとることは、ネット上の世界数十億の「目と手」があれば容易だ。

今回の舛添氏に限らず、佐野研二郎氏や不倫騒動のベッキー氏など、最近「炎上」している事例を見て感じることは、多くの人がネット上にある数十億の「目と手」の存在をあまりに軽視しているのではないか、ということだ。

手八丁口八丁なテクニックは、弁明や釈明あるいは反論としては通用しなくなっている「世論」が形成されているネット時代の危険性(あるいは有用性)のリアルを、舛添騒動の顛末から学びたいものだ。

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