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<今秋ドラマは粒ぞろい>原作とドラマの乖離はどこまで許される?

メディアゴン / 2017年11月11日 7時30分

両角敏明[テレビディレクター/プロデューサー]

* * *

10月から始まった秋ドラマはめずらしく粒ぞろいです。「ドクターX」「相棒」「科捜研の女」の定番御三家(いづれもテレビ朝日)はともかく、池井戸作品の「陸王(TBS)」、綾野剛「コウノドリ(TBS)」、綾瀬はるか「奥様は、取り扱い注意(日本テレビ)」も平均視聴率11%を軽くクリアしています。

ほかに櫻井翔「先に生まれただけの僕(日本テレビ)」、小泉今日子「監獄のお姫様(TBS)」、篠原涼子「民衆の敵(フジテレビ)」なども健闘というところです。

個人的には、NHKの朝ドラ「ひよっこ」の脚本家・岡田恵和と、沢村一樹をはじめ「ひよっこ」を支えたキャストが結集し、まるでスピンオフドラマのようなテレビ東京の「ユニバーサル広告社」が気に入っています。

さらに井上真央を見直しつつある「明日の約束(フジテレビ)」、深い時間ながらさわやかな真矢ミキの「さくらの親子丼(フジテレビ)」、シナリオに今ひとつキレがないものの浅野忠信が面白げな「刑事ゆがみ(フジテレビ)」などもあります。11月3日からはNHK-BSプレミアムで「赤ひげ」がスタートしたのも楽しみです。

【参考】<テレビドラマが消える日>無料のテレビ放送が60年で衰退した理由は「臆病」だった

これとは別に、この秋はとても楽しみにしていたドラマがありました。スカパー/時代劇専門チャンネルが藤沢周平没後20年を期して制作した3部作です。江戸の「橋」で交錯する10の人生を描いた藤沢周平の短編集「橋ものがたり」から、「こぬか雨」、「小さな橋で」、「吹く風は秋」の名作3篇をドラマ化する企画です。

テレビ時代劇はあたかも絶滅危惧種で、とりわけ江戸の市井に生きた名もないひとびとを哀切に瑞々しく描くような作品をテレビで視ることはまず望めなくなりました。そんな中でこの3部作を、しかもそれなりのスタッフ、キャストでテレビドラマ化することは筆者のような大の藤沢周平ファンならずともたいへんな朗報であったと思います。しかし、です。この3部作を視て、非常に強い疑問を抱くことになりました。

 3部作のうち「こぬか雨」は40年近く前にTBSが東芝日曜劇場で石井ふく子プロデューサー、演出坂崎彰、主演吉永小百合、三浦友和でドラマ化し話題となった名作です。今回は北乃きい、永山絢斗が演じています。

「吹く風は秋」は主演・橋爪功が老いに向かう壺ふりを演じ、「HERO」の鈴木雅之監督がメガホンを取るという異色の組み合わせです。この2作品は藤沢周平の原作に比較的忠実にストーリーを展開し、藤沢周平が描いた世界をそれなりに映像化してくれました。問題は「小さな橋で」です。

 お店者の父親(江口洋介)が家を捨て、暮らしを支えるために飲み屋で懸命に働く母親(松雪泰子)と、どこかの男と「デキてる」と長屋で噂の姉の3人で暮らす十歳の広次の物語です。

「北の国から」の杉田成道が監督したこの作品は、広次のモノローグで物語が進みます。そこへさだまさしの「秋桜」が流れてきて、まるで時代劇版の「北の国から」のようです。

このような「北の国から」チックな設えをはじめ、妙に妖艶な色気が出すぎる松雪泰子の母親像、浅川マキの「赤い橋」や、「アルハンブラの思い出」、「トロイメライ」などの有名曲を駆使する音楽の使い方など、言い出したらいくつもあるこのドラマと藤沢原作との違和感は、人それぞれの感性や好みの差と諦めるとしても、テレビドラマにおいて原作の味わいを離れた脚色や演出がどこまで許されるのかについて考えさせられことになりました。

このドラマには原作にはない場面がいくつも加えられています。文庫版で40ページほどの短編小説を忠実に辿ったのでは時間が埋まらなかったのかもしれません。あるいは映像化に当たっては原作にない説明が必要と考えたのかもしれません。

また、原作からインスパイヤーされたものをドラマ制作者が膨らますこともあるでしょう。それがどこまで許されるのか、という疑問です。

【参考】<視聴率よりも正確に視聴回数を調査>6割の大学生はテレビドラマを1回も見ていない

原作にはないのにこのドラマで付け加えられたシーンのうち筆者が特に気になったシーンが3つあります。

ひとつは、姉が駆け落ちした衝撃にうちひしがれた広次を、同じ長屋のおよしがいきなり広次の手を取って握りしめ慰めるシーンです。江戸の時世にたった八つの女の子が十の男の子の手をいきなり握りしめるなんてことがあるのでしょうか。少なくともこんなシーンを藤沢周平が書くことはないので、この小さな違和感はこの後の展開に不安感じさせました。

そしてクライマックス近くです。酔いにまぎれて男を家に引き込み、この男と暮らすと言い出した母親に反発した広次は家を飛び出します。いつのまにか「橋」まで来た広次を母親が追いかけて来ます。ここで原作にはない長い回想シーンがドラマに挿入されます。

4年前の夜、父親は博打でのしくじりを涙ながらに詫びて家を出て行きます。母親が追い、外で「行く」、「行かないで」のやりとりのあと、感極まってか夫婦は営みを始め、それを当時六つの広次が見てしまうというシーンです。これはドラマ制作者による完全創作シーンです。

藤沢周平が性描写を絶対に書かない作家とは言いません。しかし藤沢作品の99%、その多くを2度3度と読み返したほどの大の藤沢ファンである筆者にしてみれば、藤沢周平がこの物語のこの場面でこんなことを書くはずはありません。

藤沢周平を離れて、単なるテレビドラマとしても、この物語に江口、松雪の妙に濃厚な濡れ場はあまりに異質です。さらにそれを幼い広次が見てしまうという設定はなおさら無意味かつ異様で、この原作にないシーンは「小さな橋で」という作品の味わいを壊してしまった、と強く感じました。

そしてもうひとつ、母親の説得も聞かず、「橋」の欄干にもたれて、泣き疲れていつしか眠ってしまった広次のもとへ、母親から頼まれたというおよしがやってきます。

原作ではこう続きます。

広次はうつむいて、手で顔を覆った。するとおよしが腕を一杯にのばして、広次をかばうように抱いた。

「広ちゃんは、おとっつぁんがいないから、かわいそう」

そういうと、およしは自分もえッ、えッと泣き声を立てた。(筆者中略)二人は目を見合わせて、きまり悪そうに笑った。およしは広次の肩に回した腕を解いたが、今度は両手でくるむように広次の手を握った。二人は身体をくっつけあって橋の上にしゃがんだまま、しばらく無言で、丸い月を見つめた。(新潮文庫「橋ものがたり」)

これに続く文章が秀逸なのですが、それを書くのは野暮というものでしょう。

この小説のラストを、大の藤沢周平ファンと自認する作家の宮部みゆきは対談でこう語っています。

私、「橋ものがたり」の中の「小さな橋で」が大好きなんです。ちっちゃな男の子が橋の上で女の子と手をつないでて、最後にわかるんです、あ、おれ、およしとできたんだ、って。男の子の成長過程のうちですごくセクシャルな時期があると思うんですが、うーむ、すごい、すごい、すごいと、ただもうそれだけで。(平成9年4月15日「文藝春秋四月臨時増刊号」)

藤沢が描き、宮部が感動したこの場面は、八つのおよしはかわいそうな十の広次の肩に手を回し、そして二人は手をつないでしばらく無言で丸い月を見つめていた、という情景です。

【参考】<テレビ業界には「枠」がある>異変?!今年の7月ドラマにジャニーズがいない。

この幼い二人のほのぼのとして暖かい情景を、杉田監督は驚くべき演出で描きました。広次はおよしを強く抱き寄せ、胸に抱き続けるシーンとしたのです。視ていて「不純異性交遊」と見まがうような演出です。筆者はこの無理な演出をぎごちなく演ずる二人の子役が不憫でなりませんでした。そして、筆者にとっては実に後味の悪い結末の作品となりました。

杉田成道監督が原作とは無関係にこの作品にぶちこんだ奇妙な性へのこだわりによって、無垢で爽やかな広次とおよしの初恋はその印象を変え、哀切な中にも清々しく、暖かく、懸命に生きる江戸市井の人々を描いた藤沢作品の味わいとはまったく別のドラマとなりました。ならば、これは「藤沢周平原作の世界」を描いたテレビドラマではなく、実は「杉田成道の世界」を描いたテレビドラマと言うべきものでしょう。

原作ものにどこまで脚色が許されるのか、筆者は著者が許す限り、脚色は無限のように許されるべきと思います。しかし、それならそれで、例えばタイトルは別に付けて、添え書きに「藤沢周平作・「小さな橋で」より」とするなど、事前に原作とは違う作品であることが類推出来るような工夫をしてくれるとありがたいのですが。

ご参考までですが、これから何度か放送されるであろうこの作品をご覧になる前に、ぜひ先に原作をお読みになることをお勧めします。テレビドラマの方を先に視てしまうと、藤沢作品の「小さな橋で」が持つすこぶる爽やかで暖かい上質な味わいを見失ってしまうかもしれませんので。

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