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1968年「新宿騒乱」で機動隊に投石できなかった臆病こそ「原一男映画」の原動力

メディアゴン / 2014年11月17日 0時10分

原一男[ドキュメンタリー映画監督]

* * *

このコラムは「ドキュメンタリーを巡る様々な課題を考えてみよう」と書き始めたが、角度を変えて続けたい。ここからは、筆者・原一男の自己史とも重なってくる。

筆者が少年時代を過ごしたのは、山口市。山口県の県庁所在地なのだが、盆地で、静かな城下町。日々の暮らしは静謐そのもの。刺激なんてありはしない。

私は一日も早く、ここを抜け出して、世界を駆け回るドラマチックな生き方をしたかった。憧れていた職業は「報道写真家」あるいは「フォト・ジャーナリスト」だった。

その夢を実現すべく勉強しようと東京へ出たのが「東京オリンピック(1964年)」の翌年、二十歳の時。名もなく貧しく、女の子にもてるほどの器量もなく、暗い青春時代。新聞配達、牛乳配達をしながら写真専門学校へ通う日々。写真を撮るための時間のやりくりに四苦八苦し、結局、専門学校も辞めざるを得なくなり、一人あちこち彷徨いながら独学で写真を撮り続けていた。

今、しみじみ思うが、この時期に青春時代が重なってホントにラッキーだと思っている。それは「全共闘運動」との巡り合わせだ。その後の生き方の核になることをそこで学んだ。

全共闘運動が学園の中から始まり、やがて街頭へと広がっていった時代。「新宿騒乱」(1968年10月21日に新宿で発生した左翼暴動事件)の夜。ノンポリの学生たち、野次馬に混じって私もその時、新宿・歌舞伎町にいた。

“自然発生的”にデモの隊列ができた。いや、誰か扇動する奴がいたのだろうが、そんなことはどうでもいいこと。生まれて初めてのデモに加わった。左右に見知らぬ同世代の若い奴とガッチリ腕組みジグザグデモ。ザッザッザッとうねるように進むリズム感の心地よさ。快感だった。

が、それも長く続かない。機動隊が迫ってきたのだ。楯を構えてこちらに突撃する構えを見せた時、こちらは「にわか仕立て」のデモゆえに、蜘蛛の子を散らすように我らは逃げ出してしまった。

そして、機動隊への投石が始まった。誘われるように私も石を探した。がなかなか見つからない。それはそうだろう。コンクリートで覆われた街なのだから。やっとこぶし大の石を見つけ、手にして、さて機動隊に向かって投げようとするのだが、投げられない。怖いのだ。

 誰かに当たったらどうしよう?
 怪我をしたら? 自分の投げた石が当たって最悪、死んだら?

そんなことが頭の中をかけ巡った。その時期は、機動隊の側の武装もグレードアップして、催涙銃が出始めていた頃だ。学生側にも重傷者がでていた。

だから対抗上、投石しかなかった。私は、自分に石を投げろ、投げるべきである、と叱咤激励するのだが、どうしてもダメだった。その夜はひどく落ち込んだ。ここまで自分が意気地がなく、臆病であるとは思ってもみなかったからだ。

自分の臆病さに気づき、落ち込んだあと、必死に考えた。やっぱり強くなるべきである、と。強くなるために、と考えた私の方法が、のちに疾走プロ『スーパーヒーローシリーズ』を産み出す原動力につながっていったのだ。

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