<番組制作の裏側でみたスターの裏話>高倉健・明石家さんま・佐野史郎・横山やすし・岡本太郎
メディアゴン / 2014年11月30日 2時0分
吉川圭三[ドワンゴ 会長室・エグゼクティブ・プロデューサー]
* * *
●忘れられないスターの裏話・高倉健
これはちょっと自慢話になってしまうが、筆者は30代前半に先日他界した高倉健さんと一緒に仕事をしたことが一度だけある。筆者は健さんをバラエティに出してしまっのだ。これは最初で最後だろう。(ブッキングは別の方だが)ロケ地は香港。
筆者は一人で一流ホテルのリージェントに迎えに行った。やがて健さんと友人の照明さんが出て来る。これから昼食を兼ねた打ち合わせである。ピカピカに光ったシルバーのロールスロイスのリムジンを用意していた。
「どうぞ」と筆者が健さんに言うと、チラッとロールスロイスを見て、その逆を見て「あっちで。」と小さな紺のベンツを指す。
そのあと、有名なフカヒレ屋へ・・・ではなく古い小さなカレーライスの店に行った。この店に向かう間も頭が真っ白で事前に考えていた言葉が声に出て来ない。風情のあるカレー屋に着いた。「味が少し変わったな~」と健さんがつぶやく。緊張してリアクションができない。
翌日、主演の浅野ゆう子さんをドッキリで健さんのいる部屋に招き入れた。浅野さんは健さんを見て硬直して声も出ない。さらに健さんに激辛スープを食していただく等と言うバラエティのベタな仕事をしていただいた。
ペニンシュラホテルでロケが終了後、僭越にも筆者は名刺交換をホテルの裏口でお願いした。お名前とFAXナンバーだけ書いてあるシンプルな名刺。健さんが30代前半だった筆者の目をまっすぐ見て、
「高倉です。よろしくお願いします。」
と丁寧に申す。ちょっと頭がクラクラした。でも健さんの名刺がほしかった。若気の至りだ。天国の健さん。お許しください。合掌。
●忘れられないスターの裏話・明石家さんまさん
明石家さんまは、時々「名言」を放つ。
先日、筆者に仕事上悪い事が起こった。そして一転して翌日仕事上良い事が起こった。まあ人生こんなものだと思う。かつて青島幸男さんも書いたが「人間万事塞翁が馬」。だから一つこけたら、次の手を打てるように複数の布石を打っておいた方が良いのかしれない。
明石家さんまさんが楽屋でこんなことを言っていたのをよく覚えている。
「悪いことが起こったら、ヤッターと思え。次に良いことが起きると思っていた方がそれから必ず良い様に転がる。逆に、良いことがあった後は、慎重になった方がいい。調子に乗ってると必ず悪いことが起きるから。」
災いと幸せはあざなえる縄のごとし。あの人は時々、昔の中国の古典に書いてある様な事を言うのだ。
さんまさんもジェットコースターみたいな人生。人生を感じる芸人さんはやはり面白い。
●忘れられないスターの裏話・佐野史郎
「特命!リサーチ200X」(1996〜2002・日本テレビ)という番組には、ドラマ部分があり、バラエティー番組に出演しているタレントさんではなく、普段ドラマにしか出ていない役者さんに出演してもらった。
佐野史郎・高島礼子・稲垣吾郎・中野英雄、菅野美穂、川平慈英、無名時代の柴崎コウ他。豪華布陣だ。ドラマとドキュメンタリーVTRが組み合わさった画期的な番組だった。ただ、ほとんどがバラエティのスタッフだった。
その番組で、かつてこんなトラブルがあった。
我々の作る台本のオチがちょっと雑で、シーンの「オチの一行」を書かず、役者さんに完全にまかせていたことがあった。これは、上手くいく時もあるが、役者さんたちは「役者」なので、往々にして「100%上手いオチ」を付けられるわけがない。
「このオチではだめだ」
と、NGが続き、OKがなかなか出ない。
ある時、役者さんの一人がこのことで切れた。
「オチは書いておいてほしいです。」
すると、スタジオはシーンと静まり、険悪な雰囲気になってしまった。その役者の方は決して悪くない。我々の要求が無茶で雑だったのだ。
その時だった。番組の「チーフ役」で主役だった佐野史郎さんが、その役者さんに静かに近づき、肩に手を掛け、コソコソと耳元へ一言。その役者さんの顔がすっきりする。「こういってみれば。」とでも言ったのか。一気に空気が和む。スタジオの全員が安堵する。おかげでその後収録は無事終わった。
TBSのヒットドラマ「ずっとあなたが好きだった」(1992)では、エキセントリックなマザコン男・冬彦役を演じた佐野史郎さんは、あのドラマの印象とは違って、実際はなかなかの人物であった。座長として全体の役者陣の雰囲気づくりもしてくれた。こういう斬新な番組は本当に予期せぬことが起きる。
しかし、番組がこなれて行くと、収録の始まる前の全員が大きな楽屋に入ってくると、みんな親しい友人に会ったような空気が出来ていた。佐野さんは演者さんたちの相談事にも乗っていたようだ。まさに座長役。ドラマ初挑戦の我々は大いに助かったものである。
●忘れられないスターの裏話・横山やすし
横山やすし。伝説の天才漫才師である。優しい人だった。ただし、酒が入ると手がつけられなくなる。筆者は新人時代「横山やすし番」であった。所ジョージさん司会の「笑って許して!!」(1983〜1986・日本テレビ)というクイズ番組で、やすしさんはメイン回答者だった。大変扱いがデリケートな人だった。しかし、本番になると抜群に面白い。
筆者は駐車場の入り口でやすしさんの入りを毎回待つ。その時、機嫌がよいか悪いかで全てが決まる。ぽっと顔が赤くして来たときは上機嫌のしるし。スタジオで大活躍。大向こうを唸らせて帰ってゆく。
ただし、泥酔して機嫌が悪いときは最悪だ。楽屋で筆者が内容説明していると、グリーンのスリッパで頭をパーンとはたかれる。
「ごちゃごちゃうるさいんやー。お前」
一流大学卒のプライドが脆くも砕かれる。でも、かつてテレビ局はこんなもんだった。良い勉強だった。そして、その日は最悪のことが起こった。スペシャルゲストは最近、東京進出を果たした笑福亭鶴瓶さん。衝立の向こうにいるので回答者はだれが来ているか解らない。鶴瓶さんを見た観客は大喜び。
やがて所さんが「VTR回転」と言ってインタビューVTRを見ながら早押しボタンを押して行く。なかなか当たらないが、やがてある回答者が当てた。目隠しの衝立が開いて鶴瓶師匠が現れた。でもその後、背筋の凍ることが起こったのだ。横山やすしさんが声の限りに叫んだのだ。
「鶴瓶!おのれ東京に何しに来たんじゃー!今すぐ大阪に帰れー!」
スタジオは震撼とした。何が気に入らなかったのかはわからない。その日のやすし師匠の機嫌が悪かったとしか言いようがない。二人の仲が悪かったという話は聞いてなかった。
オープニングコーナーだから撮り終わらなければならないので悪夢の収録は続く。放送ストックが無かったのでこの回をボツにするわけにはいかなかったのだ。
途中、所さんとトイレですれ違う。すこし顔が赤くなっている様子だが平静だった。さすが肝が据わっている。そして、どうにか収録は終わった。筆者はやすし師匠に付き、東京無線タクシーまで送る。信じられないことに鼻歌を歌っている。
「ほなな。」
と言って何事もなかったように帰っていった。
収録したはよいが「この回どうやって放送するんだ?担当ディレクター大変だろうな。」などと思い、サブコン(スタジオの副調整室)に行く。スタッフが対策案を議論してる。
「その回は総集編にするか?」
「もう一回やすしさんの機嫌の良い時に撮り直すとか。」
だが、プロデューサーの室川治久さんは実に優秀な人、しかもクールだった。
廊下に筆者を呼び出すと、こう、小声で言った。
「お前が編集してくれ。」
意外だったが、確かに、その回の担当ディレクターには腕的に荷が重かった。筆者は編集に少し自信があったからだ。しかし、この「破壊された貴重なツボ」を復元するような仕事は果たして可能かなのか?
筆者は1週間ほとんど早朝から深夜までオフライン編集室にこもった。映像には本線テープというのと別にアイソレーションという別のスイッチングで収録した別の映像のテープがある。巨大な模造紙に全ての収録カットを書き、パズルを解き始めた。
激怒している映像やそれに怯えている映像は一切使えなかった。室川治久プロデューサーは、
「普通の放送回の様にみえるように」
という氷の様な指令を与えていた。筆者には特別な才能はなかったが「粘り強い」「段取りが良い」だけでこの業界を生きてきた。
始めて4日後、少し目途が立ってきた。ある1フレーム(1秒の30分の1)を入れるか入れないかで映像の流れも違ってくる。デリケートな作業だった。
一週間後、室川プロデューサーに見せた。仕事に厳しい人だったが、全て終わったあと、「いいね。いいね。」と絶賛。その夜、長崎皿うどんとビールをしこたまごちそうになった。
ただ、横山やすしさんの絶好調の時のあの超絶的面白さ、本当は人の好い素顔などは今でも忘れられない。あの件があっても不思議にその後あの人を憎むことはなかった。
●忘れられないスターの裏話・岡本太郎
「岡本太郎」というアーティストをご存じだろうか? 筆者は美輪明宏・荒俣宏などをバラエティに引きずりこんだことがある。この方たちはそれぞれ独自の能力・才能を持ちながらバラエティ番組の空間に放つと存在感が半端ではないので、スタジオで素晴らしい活躍をすることがある。ちょっと知的な雰囲気も出たりして、出演していただくには多少の勇気はいるが成功した場合のはじけ方が凄い。
大芸術家・岡本太郎もそうだった。戦前ヨーロッパに学びピカソはじめ華麗なる交流を持ち戦後の絵画界に革命的運動によって変革をもたらした方だが、当時の閉鎖的美術界である種、際物的扱いを受けることもあった。大阪万博の「太陽の塔」の制作でも有名だ。
初めて青山のアトリエ兼自宅にお邪魔したとき緊張したが、秘書の岡本敏子さんのおかげで和やかな雰囲気であった。でも何か変だ。筆者には、岡本さんが一体何をいっているのかがさっぱりわからなかったのだ。
芸術談議をしている様なのだが、用語も文脈もわからない。我々を芸術関係者とでも思っていたのだろうか? それでも初のバラエティ番組への出演に最後に出演を了承してくれた。
こんなことがあった。
岡本さんの出演コーナーのおかげで番組は開始から好調に推移していった。番組の大井紀子プロデューサーから「たまには岡本先生に美味しいものでも。」という言葉が出た。
そこで筆者は局の近くにある高級割烹店を選んだ。海水を大量に入れた巨大な「いけす」が真ん中にあり、魚介類を生きたまま放っている。客はこの中から好きな鮮魚を選んで網ですくいそれを調理してもらう。岡本さんは巨大「いけす」を見たときからちょっと興奮気味だった。
筆者の目を見ながら「これは何なんだ?」という表情をする。秘書の岡本敏子さんと3人で席に座る。
筆者が、
「先生何でも結構ですから好きなものを網ですくっていただいて。」
と促すと先生は網を持って「本当に?」と聞いてくる。私がさらに促すと、それから信じられない光景が繰り広げられた。なんと先生は生きているイカだけをどんどん網ですくい、仲居さんの持つ桶に入れて行く。
「素晴らしい!」
とつぶやきながら。結局、網ですくったその数7匹。巨大イカと言うのもあったが、岡本さんはイカの動きに芸術的興奮を覚えてしまったのか? 足の動きに縄文土器のダイナミックさを感じてしまったのだろうか? いづれにせよ、我々の目の前に7人前のイカの刺身がおかれた。秘書の岡本敏子さんは横でクスクス笑っている。
肩を落として会社に帰ると、大井紀子プロデューサーがいる。意を決して言った。
「岡本さんがイカを7匹召し上がりました。」
生きているイカは非常に高価だったのだ。
「実は・・・全部で7万円ほど。」
恐る恐る領収書を見せた。結局、大井さんは全額持ってくれた。自腹の部分が大半であったかも知れない。
でも、岡本さんおよび秘書の敏子さんは何でも言うことを聞いてくれた。
「大物になると面倒な事は言わないのだな。」
などと、当時は思ったものだ。
タレントでもない俳優でもない芸人でもない・・・なにか面白い他の分野の人をテレビに出し始めたテレビマンにフジテレビの横澤彪さんなどがいる。筆者も当時はそんな風だった。
今はそんな「無謀」を働く人が少なくなってしまったのが残念に感じられる。
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