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<2015メディアゴンはこう考える⑤ウラのウラはオモテではない>シンプル&ショートメッセージ化するメディア「ざっくり言うと、どういうこと?」

メディアゴン / 2015年1月2日 2時0分

水戸重之[弁護士/吉本興業(株)監査役/湘南ベルマーレ取締役]

* * *

ここにローマ法王のコンクラーヴェ(法王選出)の会場を写した2枚の写真がある。

1枚は2005年、もう1枚は2013年。2013年のフランシス法王の時の写真は、会場にいるほぼ全員がiPhoneなどスマホを掲げ、そのバックライトで会場中がペンライトのように照らしだされている。世界の精神的支柱を、会場にいた全員が各自のデバイスで撮影し、それを世界中に勝手に発信する。

「世界の中心でアイフォンを叫ぶ」である。(John Brownlee「Appleはたった7年でいかに世界を変えたか」)

そんな時代のメディアが、シンプル&ショートメッセージになっていくのは必然であり、大手メディアのニュースも見出し中心主義、「ざっくり言うと、どういうこと?」。みんな、ざっくり、早く知りたいのだ。

デール・カーネギーの3部作やスティーヴン・コヴィーの「7つの習慣」を読まなくても、人生の箴言(しんげん)はいくらでもネットに転がっている。ピーター・ドラッガー全集やマイケル・ポーターの「競争の戦略」を読まなくても、MBAもどきのノウハウは、ネットがまとめてくれている。人生で大事なことは、みんな「YAHOO!知恵袋」が教えてくれた、である。

エンタテインメントはどうだ? ライトノベル、ケータイ小説、ゲームは攻略型からカンタンな暇つぶし型へ。動画も、違法・合法を問わずネットに転がっている。テレビドラマは、といえば、そもそも放映時間に家にいない、録画しても観る時間がない、観られるとしても、少しとっつきが悪く、少し複雑なドラマの視聴率はさっぱりである。

だが、それでいいのか。ショートメッセージ報道・ライトコンテンツ全盛の時代に、メディアに求められる矜持とは、何でもかんでも批判・反対の万年野党報道でもなく、もちろん勝ち馬に乗る御用報道でもなく、ありもしない完全なる中立性でもない。

ある決断について、切り捨てられた選択肢を思い浮かべ、選択の哀しさを伝えることではなかろうか。当然、コンテンツはそれなりのボリュームが必要となり、ボリュームを最後まで読ませる・見せる芸が必要となる。

そんなめんどうくさい矜持や、優れた芸はテレビにも新聞にもネットにもほとんど残っていないように思える。結論ありきの企画を作り、少しでも複雑な構成をとろうものなら、「テレビ的に無理」「読者や視聴者にわかりにくい」で片づける。悪者は悪者と決めて、街角インタビューで一般庶民(新橋に多くいるらしい)の「困りますねぇー」「怖いですねー」で色づけしてまとめ。

アベノミクス、消費増税、原発再稼働、集団的自衛権・・・。どれひとつとっても、賛成もあれば反対もある。プロコン(メリット・デメリット)を書き出せばそれぞれに理由もあろう。ある論点について、賛成をオモテとすれば、反対はウラ。で、そのさらにウラとなれば賛成に戻る。

だが、「能天気な賛成」と「ウラのウラで賛成に戻ること」は同じではない。反対もまたしかり。世の中の矛盾、両立しないものの中での選択。賛成も反対も、どちらにせよ苦渋の選択であり、哀しき決断のはずである。あらゆる決断は、その他を切り捨てる行為だからだ。

ウラのウラはオモテではない。その機微(きび)を報道メディアは歯を食いしばってでも伝えるべきではなかろうか。

かつて健さんは唄った。

 ♪ 義理と人情を秤(はかり)にかけりゃ 義理が重たい男の世界 ♪(歌・高倉健「唐獅子牡丹」)

あの頃、人情の方が重たいに決まってるじゃないか! と思った筆者は本当に子どもでした。

 「自分だって、人情をとりたかったんです。けれど、義理をとらなきゃならないときがある。それが大人ってもんじゃ、ないですか」

そんな健さんの心のメッセージを理解できるまでにはずいぶんと時間がかかってしまった。

今日、それをしているのは一部の良質のドラマだけではないかと思う。ドラマなら登場人物たちの見せる顔や発するセリフが、異なる立場と心情を映し出すことができる。

フジテレビ「リーガルハイ・スペシャル2014」は、難病の治療にチャレンジして患者を死亡させた医療訴訟を題材に、極上のコメディに仕立てて、「医は仁術か科学か」という難しいテーマを見事に描き出した。

TBS「Nのために」は、誰かのためにと動いたはずが、次々と不調和を生み出し、ついには事件まで行き着いてしまうという上質のミステリーで、人と人のコミュニケーションが常にズレを生み出すことを描いてみせた。

TBS「女はそれを許さない・第3話」は、痴漢(冤罪)事件を題材に、痴漢をされたと訴えた側にも、疑われた側にも、疑問を残すことで、二価値判断(子供の質問「この人、良い人?悪い人?」というやつですね)になりがちな紋切型ドラマ作りを揺さぶってみせた。

いや、これらのドラマは、実は、報道メディアに一石を投じたかったのかもしれない。どちらか一方への感情移入で済ませずに、複合的な世界を描き出し、なおかつ視聴者にカタルシスを与える、優れた芸になっていた。

ドラマはエンタテインメントであり、教訓を得るために観るものではない。だからこそ、良質のドラマは僕たちの心根に染み入り、現実世界で生きていく勇気をくれるのではなかろうか。

メディアの世界は変わってしまった。いや、世界が変わってしまったのかもしれない。そんな時代だからこそ、変わらないものを、冷静に・丁寧に・正確に、描き出してくれることを、2015年のメディアに願う。

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