<地球滅亡を借景にした二つの映画>滅亡する地球を巡る二つの物語「インターステラー」「宇宙戦艦ヤマト」

メディアゴン / 2015年1月7日 1時30分

玉置泰紀[KADOKAWAウォーカー情報局長兼関西ウォーカー統括編集長]

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かたや遊星爆弾による放射能汚染で人類絶滅まで1年。かたや植物が枯死し砂嵐が襲い遠からず人類が絶滅しそう。二つの物語は何方も人類の存亡を賭けて宇宙船を発進させる。

この同じ時期に公開された二つの映画の前者の「宇宙戦艦ヤマト2199 星巡る方船」は、フルチューンナップしたTVアニメからのオリジナル劇場映画。ガミラスを倒し、イスカンダルからコスモクリーナーを受領して地球に帰る途中、ガトランティスに襲われ、記憶と時間の迷宮、シャンブロウに逃げ込む(迷い込む)のだが、これは、後者のクリストファー・ノーランの映画「インターステラー」の重力を操ることによって時間・空間を超越する世界に似ている。

地球の終わりと相対性理論を絡めた時間パラドックスはSF、アニメ、映画の定番で例えば、庵野秀明監督の「トップをねらえ!」などすぐに思いつく。

しかし、ヤマトはもはやクラシックで大前提であり、ノーラン監督も「メメント」「インソムニア」「インセプセプション」「トランセンデンス」とさまざまな時空をテーマにした作品を重ねてきていて、ある意味「手垢のついた」テーマのショックを売りにしているわけではないと感じた。

筆者は「インターステラー」「宇宙戦艦ヤマト」と二本続けて観たのだが、期せずして手練れの無駄のない高品質で上の通った仕事に感銘を受けることになった。両者ともテーマは「人類の救済」と「個人の心の問題」を天秤に掛ける事。

昔、「人の命は地球より重い」などと言ったが、今や、安全保障や国益、自己責任と言う言葉が大きくなってきている。たまたま同時期に公開された二つの映画は、本来天秤にかけると嘘くさくなる個人と世界を人間の主観的な世界観、実際にアクションをするのが個々の人間であると言う基本に収れんさせて、正論ではない表現に着地させた。全体ではなく個人の哲学に。

「ゼロ・グラビティ」には二人しか出てこなかったが、密室劇であり、「インターステラー」は「ゼロ・グラビティ」の獲得した宇宙表現から敢えて半歩戻った。「2001年宇宙の旅」の示した地点からも軽やかにステップバックしている。革新や新規さではなくドラマ表現や脚本の面白さといった、いわば「ダサいこと」が描きたかったのだろう。

逆に、「宇宙戦艦ヤマト」は見事に現代の深夜アニメ・テイストでの再構成を果たし、なおかつ物語のリセットと原点回帰で新しい展開を可能にした。バルジ大作戦のドイツ戦車隊のようにガミラスを解きほぐし、新しいバトルフィールドを生み出した。

二つの映画は地球滅亡自体を借景にして、表現領域を確保するアプローチを成功させた。この内実の確かさを、ぜひ、見てほしい作品だ。

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