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<ニュースのエンタメ化の弊害?>チュニジア博物館襲撃テロでも「日本人が・・・」と伝える報道に違和感

メディアゴン / 2015年3月23日 14時30分

高橋秀樹[放送作家/日本放送作家協会・常務理事]

* * *

IS(いわゆる「イスラム国」)が犯行声明を出したチュニジアのバルドー博物館襲撃テロ(3月18日発生)では、21人の方々が犠牲となった。その中には日本人観光客3人を含まれていた。筆者には犠牲になられた方のご冥福をお祈りするしか術がない。

ところで、海外でこうした事件が発生すると、日本のメディアは「日本人が◯人死亡」と見出しを打つ。筆者はこのことに以前から違和感を覚えていた。

なぜ違和感を覚えるのか? 例えば海外で列車や船の事故があって、犠牲者がでた時にも「日本人は居ない模様です」と言う。サイクロンや、津波、地震など、自然災害でもまた同じ。いずれも「心配」は日本人のことだ。「日本のメディアだから当たり前だ」という考え方もあろう。

だが、それは、第一報のみでいいのではないか? その後は、そのテロや、事件や、事故や、自然災害が、つまりそれ自体が問題なのであって、

 「日本人を中心にものを論ずる考え方は違うのではないか?」

と思うから、筆者は違和感を感じるのである。

ニュースを報じる現場では海外でこうした出来事が知らされると、

 「遠いなあ」

という言葉が交わされるらしい。「遠い」というのは、「地理的に遠い」し、その場所のことは日本人は誰も知らないから、「日本人の興味感心上、遠い」。

よって、

 「放送しても視聴率には遠い」

ということを意味し、新聞や週刊誌の「売上にも遠い」という様々な意味を含んでいるらしい。テレビというメディアが今日、ますますエンターテインメント化しているという言い尽くされた指摘。バラエティ化するニュースなどにたいする様々な意見があることも理解してもなお、この発想には筆者にとって違和感が残る。

こんなことを感じるようになったのはニューヨークで発生した9・11テロの時である。あまりに「日本人の、日本人の・・・」という言葉が聞こえたり、見えたりしからである。

きっと海外のメディアでも事情は同じなのだろう。東日本大震災は欧米メディアにとって日本敗戦のニュース以来では、2度目に欧米世界に発信しなければならないニュースだった。という、まじめとも、不謹慎なジョークとも聞こえる発言をアメリカ人のテレビマンから筆者は聞いた。

たとえば「遠い、遠い」チュニジアで東日本大震災のニュースが報じられた時、チュニジアのテレビ局は「チュニジア人の犠牲者は居ません」と、報じるのだろうか。 こうした報じ方が日本人全体のレベルを下げているのではないか、と筆者は思う。

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