なぜ日本は経済大国になれたのか(後編)――戦後日本の「ビッグプッシュ型」経済

MONEYPLUS / 2019年4月28日 21時15分

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なぜ日本は経済大国になれたのか(後編)――戦後日本の「ビッグプッシュ型」経済

太平洋戦争が始まる頃には、日本は巨大な戦艦を建造し、高性能の戦闘機を製造できる工業国になっていました。1870年には737ドルだった1人あたりGDPは、1940年には2,874ドルに増加しました。江戸時代の停滞状態から比べれば大躍進です。

とはいえ、明治維新から太平洋戦争直前までの経済成長は年率にすれば約2.0%にすぎません。もしも1950年以降も同じ成長率だったとしたら、アメリカの豊かさにキャッチアップするのに327年もかかるはずでした[10]。

ところが、日本と欧米先進国との生活水準の格差は1990年までには解消されます。いったいどんな手品を使えば、このような爆発的経済成長が可能なのでしょうか?


戦後日本の「ビッグプッシュ型」経済

20世紀、アメリカを始めとした先進国の1人あたりGDPは年率約2%で成長していました。貧しい国が2世代(60年)でこれに追いつくには、1人あたりGDPが年4.3%で成長しなければなりません。人口の増加率にもよりますが、GDP全体では年6%以上の成長が必要です[11]。

これは、並大抵のことではありません。

なぜなら、先進国経済のすべての要素を同時に準備しなければいけないから――需要が生まれる前に投資を始めなければいけないからです。

たとえば製鉄所は、鉄の需要が伸びる前に建設されなければなりません。自動車工場は、鉄の生産が始まる前に建設されなければなりません。しかも、消費者の間で自動車の需要が生まれる以前に、これらの生産設備が完成していなければならないのです。

当然ながら、市場原理に任せているだけではこのような経済成長はできません。政府主導の綿密な計画が必要です。このような政府策定の計画に基づく経済成長を「ビッグプッシュ型」経済と呼び、ソビエト連邦で1928年から始まった「第一次五ヶ年計画」はその典型です[12]。

そして日本の戦後復興と高度成長も「ビッグプッシュ型」でした。終戦直後の日本が直面したのは、極端な生産の縮小でした。要するに物不足に陥ったのです。

たとえば戦時中には年間5000万トンに達した石炭生産は、強制労働させられていた朝鮮人や中国人が帰国してしまったために、鉄道用の燃料が確保できないほど落ち込みました[13]。1943年には年間770万トンだった鉄鋼生産は、1945年には50万トンまで縮小しました。

石炭や鉄鋼は、あらゆる産業の基盤となる素材です。これらの生産量が激減したことで、機械装置を動かすことも、製品を作ることもできなくなってしまったのです。

日本政府は「傾斜生産方式」と名付けた経済政策で、この難局に対応しました。復興のためのお金を石炭と鉄鋼に集中的に投下したのです。たとえば炭鉱労働者への食糧配給は、常人の2倍になりました。これらの産業が復活すれば、他の産業にも波及していくと考えたのです。

反面、このときに設立された「復興金融公庫」が大規模にお金を貸し付けたせいで、国内を出回るお金の量が増え、極端なインフレーションが発生しました。日本政府は価格統制でインフレと戦いつつ、各産業が回復するのを待たなければなりませんでした。

1950年、朝鮮戦争が勃発。日本はアメリカ軍の朝鮮出動の基地となります。アメリカ軍やその兵士がさまざまな物資を買い付けたため、日本は好況に沸きました。いわゆる戦時特需です。日本の経済はここで大きく成長し、1953年までに戦前の水準を突破しました[14]。

しかし、順風満帆とはいきませんでした。

1957年には、日本の国際収支は赤字に転落します。輸出よりも輸入が上回ってしまったのです。当時の日本経済は、原材料を輸入して、加工品を輸出するという構造でした。輸入のためには相手国の通貨が必要です。そして外貨を獲得するには輸出をするしかありません。要するに経済成長が輸出によって制約されていたのです。1950年代半ばには、日本の急成長は長くは続かないという悲観論が支配的でした[15]。

これに異を唱えたのが、経済学者・下村治(しもむら・おさむ)です。

彼は、輸入超過は一時的なものだと看破しました。外国から購入した原材料が工場の倉庫に在庫として眠っているだけであり、じきに輸出が伸びて国際収支は改善すると考えたのです。在庫調査の結果、下村の説が正しいと証明されました。

下村治は1960年に発足した池田勇人(いけだ・はやと)内閣のブレーンとなります。そして、有名な「所得倍増計画」が策定されます。

所得倍増計画と高度成長

所得倍増計画は、10年間でGNPを2倍にするという野心的な計画でした。GNPとは「国民総生産」のことで、GDPが広く使われる以前に一般的だった指標です。計算方法には違いがあるものの、GDPと同様に「ある国の経済規模を計る指標」だと考えてかまいません。

この計画が緻密なものだったかというと、そこには疑問符が付きます。なぜなら日本経済は、計画をはるかに上回る速さで成長したからです。たとえば設備投資は、1970年の目標とされていた水準を1961年には飛び越えてしまいました[16]。

さらに1960年代には「団塊の世代」が中学や高校を卒業し、労働市場に流れ込みました。人口に占める労働可能な人が多い「人口ボーナス期」に入ったのです。働き盛りの人は生産活動を行うだけでなく、消費活動も旺盛です。そのため人口ボーナス期に突入した国は力強い経済成長を経験します。

じつのところ、団塊の世代によって労働者の数が増えすぎ、失業が問題になるという予想もありました[17]。しかし事実はまったく逆でした。爆発的な経済成長により、この時代は人手不足が深刻化したのです。

その結果、1960年までは4,000円前後だった中卒者の初任給は、わずか2年ほどで6,000円に跳ね上がりました。また、「臨時工」という名目で本工の半分ほどの賃金で働かされていた労働者は姿を消しました[18]。労働組合も強気に賃金闘争を行い、1961年以降は毎年2ケタのベースアップ率が達成されます[19]。

かつて、日本経済には「二重構造」が存在していました。大企業に比べて、中小零細企業の賃金水準が極めて低かったのです。大企業はそうした中小企業を下請けにすることで、低廉(ていれん)な労働力を利用できました。現代の日本企業が、低賃金の国に海外工場を作るようなものです。それを1つの国の中で行っていたのです。

ところが1960年代の人手不足は、この構造を破壊します。

労働組合のある大企業を中心に賃金水準が引き上げられた結果、中小企業も高賃金を約束しなければ労働者を確保できなくなったのです。高い給料を支払いながら経営を続けるためには、生産性を高める――つまり労働を節約して資本(=機械)の利用を増やす――しかありませんでした。そして、それができない企業は淘汰されていったのです。

こうして大企業と中小企業との賃金格差は是正されていき、1969年には国民の約9割が自らを中流階層だと認識するようになりました[20]。いわゆる「一億総中流」の時代が到来したのです。

その後も日本は着実な成長を続け、1990年までには欧米先進国と遜色ない生活水準を手に入れました。

なぜ戦後日本は成長できたのか

戦後日本の「ビッグプッシュ型」経済は、明治期とは真逆の発想でした[21]。安い労働力でも利益を出せるように資本(=機械)をさらに格安で利用できるよう工夫するのではなく、高度に資本集約的な――要するに高額の――最新鋭の生産技術・設備をあえて導入したのです。

これは、いわゆる「規模の経済」を考えると分かりやすいでしょう。

あらゆる製品は、生産規模が大きくなるほど1個あたりの費用が安くなります。職人がほぼ手作業で組み立てるフェラーリよりも、機械化された工場で大量生産されるカローラのほうが安く作れます。

反面、規模の経済にも限界があります。生産規模が一定を超えると、1個あたりの費用が下がりにくくなることが知られているからです(収穫逓減)。その規模を超えた工場を作ってしまうと、利益が減ってしまうのです。

したがって、あらゆる産業の工場には「製品1個あたりの平均費用を最小にできる生産規模」が存在することになります。これを最小効率生産規模といいます。

戦後日本の戦略は、最小効率生産規模の工場をたくさん作らせることで――ときには最新技術を導入してその規模を押し上げることで――国民の所得を上げながらも、国際市場で競争力のある格安の製品を生み出すことでした。

たとえば鉄鋼業の最小効率生産規模は、1950年には100~250万トンでした。当時の日本でこの規模を持つのは八幡製鉄所のみで、残りの製鉄所はより小さく、効率の悪い設備で生産活動を行っていました。そのため、当時の日本は低賃金だったにもかかわらず、日本産の鋼鉄は欧米産のそれに比べて50%も割高だったのです[22]。

こうした非効率な工場を最新鋭のものに置き換えることが、日本政府の狙いでした。これらの計画を推進したのは、通商産業省(現・経済産業省)です。

戦後すぐに傾斜生産方式が採用され、石炭と鉄鋼にお金が優先的に配分されたことはすでに書いた通りです。ここに電力と海運を加えて、四大重点産業と見なされており、融資などの面で優遇されていました[23]。通産省はこの政策を引き継ぎ、さらに1955年には機械工業や電気機械工業を新たな重点産業として取り上げました[24]。

政府はこれらの産業に低金利の資金を供給するだけでなく、各業界に合理化計画を策定させました。さらに、業界の計画よりも強気で生産と輸出を伸ばすよう指導したのです。こうして日本の製造業は、熟練工による少量生産から工場のベルトコンベアによる大量生産へとシフトしていきます。

こうした指導が功を奏し、1950年代後半には各業界で積極的に設備投資が行われるようになりました。また、業界内での競争が激化したことも設備投資の増大につながりました[25]。

たとえば自動車業界では、トヨタのクラウンに対抗して日産はセドリックを開発し、日産のブルーバードを打ち負かすためにトヨタはコロナを発売しました。こうして自動車大手2社は小型車から大型車までの全面競争に突入し、マツダなどの他社も生き残るためには全車種を開発せざるをえませんでした。このような状況で生産設備が増強されないはずがありません。

1960年に所得倍増計画が発表されると、産業界はさらに強気になりました。GNPを2倍にするという下村治の計画を信じたのです。将来の需要の伸びを期待して、各社はいっせいに設備投資を増やしました。これに応じるためには、機械、鉄鋼、セメントなどの産業は生産を増やさなければならず、自らも設備投資が必要になります。設備投資が設備投資を呼ぶ状況になったのです[26]。

太平洋側の沿岸には大型の石油コンビナートが次々に建設され、石油化学工業が急成長しました。日本の風景は変わり、東京から小田原までの地域に田畑はほとんど見られなくなり、上野から高崎まで工場が立ち並ぶようになりました。カメラ、ミシン、時計などの精密機械工業は、新たな輸出産業となりました[27]。

以上のように、戦後日本の急成長は政府主導による計画経済――「ビッグプッシュ型」経済――によってもたらされました。その内容は、資本集約的な設備を積極的に導入することで、生産の増大と、国民の生活水準の向上とを同時に達成するというものでした。

一例として自動車産業を見てみましょう。

1950年代の自動車組立工場の最小効率生産規模は年間20万台ほどで、フォードなどのアメリカのメーカーはこの規模で自動車を作っていました。

一方、最新の技術を貪欲に吸収した日本の自動車工場は、1960年代には最小効率生産規模を年間40万台にまで引き上げることに成功しました。ホンダやトヨタのような大手企業では、年間80万台に達することさえありました[28]。

つまり、1年で80万台を製造するときに1台あたりの費用をもっとも安くできる工場を持っていたということです。破格の生産能力です。

こうして日本の製造業は、高賃金を払いながらも製品に競争的な価格をつけられるようになったのです。日本は(少なくとも経済規模では)先進国の仲間入りを果たし、江戸時代には想像もできなかったような豊かな生活を、私たちは手に入れたのです。

■参考文献■
[10]ロバート・C・アレン『なぜ豊かな国と貧しい国が生まれたのか』NTT出版(2012年)p169
[11]ロバート・C・アレン(2012年)p177-178
[12]ロバート・C・アレン(2012年)p179
[13]中村隆英『昭和史』東洋経済新報社(2012年)下p548-549
[14]中村隆英(2012年)下p592
[15]中村隆英(2012年)下p651-654
[16]中村隆英(2012年)下p663-664
[17]中村隆英(2012年)下p671
[18]中村隆英(2012年)下p669-670
[19]中村隆英(2012年)下p674
[20]中村隆英(2012年)下p673
[21]ロバート・C・アレン(2012年)p183
[22]ロバート・C・アレン(2012年)p184
[23]中村隆英(2012年)下p592
[24]中村隆英(2012年)下p597-598
[25]中村隆英(2012年)下p655-657
[26]中村隆英(2012年)下p665
[27]中村隆英(2012年)下p666-667
[22]ロバート・C・アレン(2012年)p186

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(Rootport)

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