写真がとらえたスーダン難民たちの<いま> 過酷なキャンプ生活での不安と希望
国境なき医師団 / 2024年7月30日 17時48分
スーダンで続く紛争。特に西部の西ダルフール州では、州都ジェネイナでのマサリート人に対する暴力が深刻な問題となった。
写真家コランタン・フォレンが国境なき医師団(MSF)のチームと共に、隣国チャドに逃れてきたスーダン難民らの姿を伝える。難民となった人びとは、故郷に戻るという微かな希望を抱いている。夢と記憶と共に、難民キャンプの厳しい現実を日々生きる人びとのの<いま>を写真でとらえた。
スーダン難民が負った心のトラウマ
23歳のジュワヒール・アブデラマネさんは、スーダンで大学生だった頃に受けた暴力の記憶にさいなまれている。頭部を撃たれ、長期にわたる入院生活を送った。この4月に退院したが部分的に麻痺が残っており、発作を起こすことも多い。
「その時、民兵たちが私たち家族全員に襲いかかってきたんです」と、母親は語った。母親によれば当時、路上において銃撃戦が繰り広げられ、家屋は焼かれ、多くの人びとが身体的虐待を受けたという。
この民族間の抗争は、昨年6月に最悪の状態となった。マサリート人を中心に何十万人もの人びとが、危険を賭してでも、隣国チャドに避難せざるを得なくなった。
ジュワヒールさんもまわりの人びとも、今後の将来については不安しかない。自分たちは心身の傷を克服していけるのか。仕事に就けず、移動すら困難な状況の下で、どうやって生きていけばいいのか。
チャド東部の国境の街アドレで2023年6月以降、MSFはチャド保健省と協力して2000人以上の戦傷患者への手術にあたってきた。
患者の中には退院後、アンベリアの仮設キャンプに送られるケースも多い。ここにはMSFの診療所があり、患者の回復を支援している。術後の医療ケアも提供されており、理学療法士によるリハビリテーション、骨折状況の確認、包帯の交換、疼痛管理などが実施されている。
この診療所では、心のケアを受けることもできる。心理カウンセラーのファティメ・ジェファルは語る。
「私は内戦で心の傷を負った患者たちに、カウンセリングを実施しています。医師がカウンセリングを勧める場合もあれば、心理カウンセラーが、心のケアを必要としている人びとを見つけ出すこともあります。こちらで対応できない場合は、心理士や精神科医を紹介しています」
「片足になっても妹たちの面倒を見るんだ」
5月下旬、アンベリアのキャンプに避難していた難民や負傷者は、長期受け入れを想定して設置されたキャンプであるファルチャナに移された。ファルチャナは、2004年1月にチャド東部で最初に設置されたキャンプの1つだ。現在は、さらに多くの難民を受け入れるために拡張されている。
このキャンプで暮らすアダム・モハマト・ハミスさん。彼はファルチャナをよく知っている。実は、幼少期の一時期を過ごした場所だからだ。2003年、故郷の村は、民兵たちの焼き討ちによって壊滅する。アダムさんは、両親とともに、ファルチャナのキャンプに避難した。
長男だったアダムさんは、その後、ジェネイナに戻って学業に励み、そして結婚する。妻と2人の娘とともにジェネイナの街で暮らしていたが、暴力の激化によって、またもや避難せざるを得なくなった。
アダムさんは、ジェネイナで腕を撃たれた。6月にアドレの病院に到着した時点で、すでに1週間が経過しており、そのあいだに傷は化膿していた。
アダムさんはこう語る。
「治療が間に合わず、片腕を失いました。チャドの国境まで辿り着くために、人目につかないよう注意を払いながら歩き続けたのです。あれは恐ろしい経験でした。結局、腕を切断することになり、3カ月ほど入院していました。今は食料配給に頼りながら生活しています」
MSF医師でチャド人のマハマト・ジベルト・ヒセインは、アドレに押し寄せてきた無数の患者たちの姿が記憶から離れないという。
2023年11月、西ダルフール州アルダマタで多くの市民が殺害された、いわゆる「アルダマタの虐殺」で負傷した多数の人びとが、彼の務めるMSF診療所に運ばれてきたのだ。患者たちの多くは傷口が化膿したまま、けがをして数日が経っていたという。
マハマトが次のように語る。
「当時、私は、唯一の整形外科医でした。銃撃による骨折のケースが多く、ほとんどは細菌に感染していました。特に覚えているのは、15歳ほどの少年です。両親が1週間前に施したという止血帯をつけて、診療所に来院したのです。妹さんたちが一緒でしたが、両親はいませんでした。傷の状態を考えると、切断するほかありませんでした」
手術室に入る時、彼が私に言いました。『先生。片足になっても、妹たちは僕が面倒を見るんだ。他に誰もいないからね』
前述のアダムさんの長女は、いつ故郷に戻れるのかと、アダムさんによく聞いてくるのだという。キャンプでは、ボランティアたちによる青空教室が開かれている。しかし、彼女は、学校に通っていた頃を懐かしがっているそうだ。アダムさんは、そんな彼女のために、歴史と地理の教師役となっている。
「今のところ、スーダンに帰国するなど、考えられないですね」と、アダムさんはきっぱり言う。妻は、アメリカのような安全な国への移住を望んでいる。彼女の兄は、チュニジアから地中海を渡ろうとして命を落としているのだ。
難民と地元住民で食べるものを分け合う日々
チャドでは、5人に1人の子どもが、5歳の誕生日を迎えることなく亡くなっている。また、約1740万人の人口のうち、200万人以上が深刻な食料不足に直面している。
チャド人女性のウンムサマハ・ヤコブさんの息子は、アドレ病院の集中栄養治療科に入院しているという。
「ここ数カ月、私たちは、多い時で10家族もの難民を自宅で受け入れてきました。彼らが食料配給のあるキャンプに移動するまで、私たちの食べ物を分け合っているのです」
この不安定な地域にスーダン難民が多数集まったことで、地元住民の生活リソースはひっ迫状態にある。2024年初頭、チャド政府は食料および栄養に関する緊急事態を宣言した。
約20年前に設置された難民キャンプは、慢性的な過密状態にある。新たなキャンプの設置も進んでいるが、十分な収容能力がない。アドレに一時滞在している10万人以上の難民たちは、仮設シェルターやビニールシートの下で、何とか生存を図っている状況だ。水不足も深刻で、脆弱な人びとは栄養失調に陥っている。 彼らの生活環境を改善するため、MSFは、1年以上前から大規模な緊急援助活動を展開している。特に、医療と水の供給にフォーカスしているところだ。 難民や地元住民たち同士の助け合いや、難民への臨時雇用の割り当てだけでは、現状は打開できない。多くの人びとに向けた人道援助という意味では、世界食糧計画(WFP)による食料配給が必要不可欠だ。しかし、そのWFPは、資金不足のため、活動中断の危機にある。
一方で、毎日のように、国境を超えてチャドに入国してくる難民たちは、飢餓と困窮のなかにある。紛争が長引くにつれて、こうした状況はさらに悪化する一方だ。
難民女性たちの声
ファティメ・デファ・イブラヒムさん
アドレに到着した当時は、仕事を見つけられず、食料配給も十分ではありませんでした。以前はスーダンのアルダマタに住んでいたのですが、内戦が始まったので、10歳と12歳の娘を連れてアドレに来ました。
RSF(スーダンの準軍事組織)は、私たちが持っていたものすべてを略奪したんです。
現在は毎日レンガを作っています。1000個で300CFAフランほど報酬をもらえますからね。
イクバル・ユスフさん
アブテング・キャンプでは、寝る場所さえありません。すべて他の人びとで埋まっている状態です。仕事もないし、今は歩行すら大変です。長女がアドレに来て、家族の食料を買うためにお金を稼ぐと言ってくれています。
私たちは、6月にジェネイナから脱出しました。何も持たず、銃撃を避けながら、できるだけ身を隠してね。姉は腹部を撃たれ、彼女の夫は頭部をケガしました。私の夫は、一時的に行方が分からなくなって、なんとか再会できましたが、やはりケガを負っていました。チャドに入国した後、MSFの治療を受けたんです。
それから4カ月ほどして、私は、姉の息子を探すためにスーダンに戻ったんですが、結局、彼は殺されたと聞かされました。
その際、私も負傷したんです。複数の戦闘機が頭上を飛んできて、みんなが逃げまどっていた最中のことです。私の車が攻撃されて、アドレのMSF病院までカートで運ばれました。
9回も手術を受けましたよ。5日前、歩行訓練のための理学療法を受けて、包帯も交換してもらったところです。
サファ・アブドルラヒムさん
娘のファイハは、5週間前から栄養失調治療プログラムを受けています。でも、ここですら、食べ物を手に入れるのは至難の業です。配給カードは持っていますが、前回の配給では何ももらえませんでした。
妹が赤ちゃんを見てくれているので、私はレンガを作ってお金を稼いでいます。でも、ここ1週間は仕事がないんです。両親は病気だし、妹たちはまだ小さいから、働けるのは私だけです。
夫はジェネイナで行方不明になりました。私は、6月に妊娠が分かってから、母と一緒にチャドまで歩きました。
9月末、夫を捜すためにスーダンに戻りましたが、アルダマタでは、内戦が再燃していました。私はスーダンで娘を出産し、チャドに戻ったんです。今も夫の行方は分かりません。
アシェイ・ムハンマド・アフメドさんと孫娘
私は65歳になります。昨日ここに着きました。 私たちは、以前アブラという村に住んでいましたが、2003年にアルダマタに移りました。
11月にそのアルダマタが攻撃されたので、私たちは、元の村に戻りました。でも、故郷の村には、食べるものが何も残っていなかった。私の兄弟は内戦で殺され、作物は全滅しました。
ここ数カ月は食料を見つけるのが本当に難しい状況です。私は、アドレで治療を受けるよう勧められ、さらに難民登録するよう助言を受けているところです。
ゴマシャ・ザクリア・ヤヒヤさん一家
今日、アルダマタから、母と娘を連れてここに来ました。ここに来るのは初めてです。
アルダマタでの暮らしはきつかった。家族みんなでなんとか耐えていこうと励まし合っていましたが、もう限界でした。アラブ系民兵たちにロバを奪われ、家畜から作物まで全てを失いました。
食べるものもなく、ここに来たんです。腕の痛みで眠れないので、医者に診てもらおうと思っています。
絶えることのない戦争と性暴力
この戦争の中で、性暴力も絶えず聞こえてくる問題だ。こうした不安定な状況下で、いっそう深刻化している。MSFは、性暴力被害を受けた人びとに向けて、診療と心のケアを提供しているが、情報不足やスティグマ(社会的汚名)への恐れから、多くの人が治療を受けられずにいる。
スーダンにおいて、こうした問題に携わってきたアクティビスト、ソーシャルワーカー、医療関係者、弁護士たちは、チャドに移ってもなお、意識啓発、記録保存、被害者支援などに取り組んでいる。
性暴力対策などに取り組むスーダンの団体ROOTSのアクティビストは、次のように懸念する。
「多くのレイプ被害者が自殺願望を抱いています。孤立状況に置かれた上に、母国からも出ていかざるを得なくなりました」
自分は拒絶されているのだという感情を強め、性暴力を受けたことについて語る勇気を失っていくのです。
ROOTSはスーダンで社会福祉センターを運営しており、性暴力に関する啓発活動を続けてきた。また、被害者に治療に関するアドバイスを行うほか、権利や法制度に関する情報も提供してきた。
別のアクティビストは、次のように語る。
「この内戦中も、ROOTSのボランティアたちは活動を続けてきました。さまざまな地域において情報を伝え続けています。ある日、民兵たちが私の家に来ました。狙いは私でした。しかし、見つからなかったので、彼らは私の父を代わりに殺したのです」
チャドに亡命してきた弁護士たちも、匿名という形で、同様のことを語っている。
「私たちは指名手配を受けています。民間人に対する暴力を記録し、ダルフールにおける戦争犯罪と闘ってきたからです。民兵たちの手元には、私たちの氏名と写真を載せたリストがあります。この戦争のなかで、多くの仲間がレイプされたり、殺されたりしています」
こうした恐怖は、チャドにも及んでいる。アドレ周辺の市場やキャンプで、暴力加害者たちを見かけて不安を覚える人びとも多いのだ。「見つけ出して殺してやる」といった脅迫の電話やメッセージが、スーダンからアクティビストたちに対して送られることもあるという。
あるアクティビストは、毅然としてこう語った。
彼らは、私たちを止めることも脅えさせることもできません。私たちは、最後までやり抜くつもりです。
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