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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第41回 【茂吉】救い主現る

マイナビニュース / 2024年5月14日 12時0分

画像提供:マイナビニュース

フォントを語る上で避けては通れない「写研」と「モリサワ」。両社の共同開発により、写研書体のOpenTypeフォント化が進められています。リリース予定の2024年が、邦文写植機発明100周年にあたることを背景として、写研の創業者・石井茂吉とモリサワの創業者・森澤信夫が歩んできた歴史を、フォントやデザインに造詣の深い雪朱里さんが紐解いていきます。(編集部)

○買い手を探しに

1928年 (昭和3) 春に商工省から交付された3,500円の発明奨励金も、あっという間に使い果たしてしまった。スムーズには進まない研究、加速する経済上の苦痛のために、もともと痩身だった茂吉はさらに痩せた。[注1] 茂吉は41歳、信夫は27歳になっていた。

実用機製作は完全ではないまでも、おおよその目処がついたと茂吉がかんがえた同年秋ごろには、すでに資金の都合がつかなくなってしまっていた。

困った茂吉は、これまで自分たちの仕事を支持してくれており、印刷界に顔の広い『印刷雑誌』発行兼編集人の郡山幸男に相談してみることにした。

郡山は茂吉から開発の進行状況を聞くと、「なるほど、そこまで進んでおれば、資金調達には、機械の買い手を見つけるのがいいな。共同印刷がいいかな……」そう言って、共同印刷の大橋光吉社長 [注2] あての紹介状を書いてくれた。当時の大きな印刷会社のなかでも、あたらしい機械への投資にもっとも積極的というのがその理由だった。

茂吉は郡山の紹介状をたずさえて、さっそく、共同印刷をたずねた。対応してくれたのは大橋光吉社長と、常務の君島潔だった。

茂吉たちは写真植字機の金額を、文字盤を含めて3,800円と決めていた。大橋は茂吉の話を聞くと、「それは価値ある研究だな。よし、1台注文しようじゃないか」と言ってくれた。そして1台を予約注文すると同時に、全額を前金で支払ってくれたのだ。茂吉たちの研究を援助する意味での前払いだった。[注3]
○「機械道楽」大橋光吉

共同印刷は、1925年 (大正14) 12月26日に発足した印刷会社である。その源流は、明治・大正期に日本の出版業を牽引した博文館。新潟県長岡出身の大橋佐平 [注4] が1887年 (明治20) 6月15日に各界の名論各説を収録した『日本大家論集』を刊行してベストセラーとなり、以降『太陽』『文芸倶楽部』といった人気雑誌をはじめ数多くの雑誌や書籍を刊行し、おおきく発展した出版社だ。

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