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写植機誕生物語 〈石井茂吉と森澤信夫〉 第43回 【茂吉と信夫】海軍水路部からの注文

マイナビニュース / 2024年6月11日 12時0分

○順調な導入のいっぽうで

邦文写真植字機の成績良好を受け、翌1931年 (昭和6) には海軍水路部からもう1台の注文が入った。潮汐表や海図に使われる数字は水路部独特の書体だったため、専用の文字盤も製作された。[注8]

水路部からの追加注文による収入を得て、ほっとひと息をつくことができたものの、その後はぱったり注文が止んだ。写研やモリサワのオフィシャルな資料ではないが、当時を綴る雑誌記事には、「その後はまだ1台も売れてはいない。目下できあがっているものが10台、製作中のものが10台ある」とある。経済上の圧迫は、なおも写真植字機研究所を苦しめていた。[注9]

しかも、1930年 (昭和5) 春までに機械を買ってくれた共同印刷、凸版印刷、秀英舎、日清印刷、精版印刷の5社からは、機械を扱ってみたうえで「邦文写真植字機は、まだ実用には不十分である」と厳しい指摘が届いていた。いくつも挙げられた欠点のなかでもっとも大きかったのは、文字盤 (書体) の欠点と、ルビの印字ができないということだった。 [注10]

(つづく)

[注1] 松島徳三郎 (まつしま・とくさぶろう):1892年 (明治25) 5月、徳島県生まれ。没年不詳。1914年 (大正3) 、東京高等工業学校写真製版専修過程を修了後、海軍水路部に海軍技官として25年勤務。その間、亜鉛透写版製法、平版校正機の色刷合方法の改良などの研究で多大な業績をおさめた。1937年 (昭和12) 秀美堂印刷を設立、取締役社長に就任。1949年 (昭和25) 写真印刷取締役会長に就任。著書に『新しい写真術の字引』(実業之日本社、1922) 、『ヂンク応用写真平版術』(修文館、1928) など。
※参考資料:「印刷図書館:印刷史談会/印刷アーカイブス - ぷりんとぴあの小箱 印刷史談会」( https://www.jfpi.or.jp/printpia4/part3_01.html )より、1967年1月26日に開催された史談 松島徳三郎「大正時代の海軍水路部印刷所」https://www.jfpi.or.jp/files/user/pdf/printpia/pdf_part3_01/part3_01_002.pdf (2024年2月24日参照)

[注2] [注3][注4]『石井茂吉と写真植字機』写真植字機研究所 石井茂吉伝記編纂委員会、1969 p.111、「文字に生きる」編纂委員会 編『文字に生きる〈写研五〇年の歩み〉』写研、1975 p.20

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