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【教養としての哲学】他者の心をどう知るか、哲学的な視点からはこう考える

マイナビニュース / 2024年6月29日 10時30分

画像提供:マイナビニュース

「哲学」というと、憧れと諦めの気持ちを持つ読者も多いのではないでしょうか? そんなあなたに、哲学についてやさしく詳しく解き明かした新刊『マンガ版 教養として学んでおきたい哲学』から、一部を抜粋してご紹介します。
○■哲学者が好む「そもそも~」

"基本的な前提"を疑うというときに、一番わかりやすい表現というのは哲学の議論においては「そもそも~」という問いかけ。いわゆる"ちゃぶ台返し"です。

ああでもない、こうでもないと議論している中で、前提そのものが間違っているのではないかと問い直すことで、これまでの議論すべてがひっくり返されてしまうことはありえるので、「そもそも~」というワードは哲学者が好むフレーズで、「そもそも~」から議論が始まることも少なくありません。

これはプラトンの説明ですが「こういう風にするのが真の友だちなんだ」といったとき、プラトンは「そもそも真の友とはどういうことなのか? さらに言うとそもそも友だちとは一体どういうことなのか?」といった問い方をします。

こういった問い方が哲学において"前提を疑う"ということのひとつのやり方になっています。
○■「他者論」――他者の心をどう知るか?

哲学においてしばしば語られるのが「他者論」ですが、他人の心が理解できますか? という話になると、当然誰もが、常識的に「わからない」と答えると思います。

「他人が何を考えているかはわからない」というのは常識といってもよいでしょう。しかし、哲学者の場合はそこに留まらず、「他人が考えているということを一体どうやって知ることができるか?」ということをまず問い、さらには「そもそも他人は考えているのかどうか?」といった感じで、考えているかどうかすら問うことができます。

私たちが知っているのは、身体の外側だけであり、もしかすると精巧なアンドロイドのように、ただ身体を一定の方向に動かしているだけかもしれません。つまり、「他人に心があるかどうか?」ということを疑うようなことすらありますし、さらにいえば、「心とは何か?」、それすらも問い直し、「自分に心はあるのか?」というところまで疑っていくのです。このようにトコトンまで疑っていくのが、哲学のひとつのやり方なのです。

自分の見ている〝青〟と他人が見ている〝青〟が同じ〝青〟かどうかはわからないという話があります。基本的には、どのように見えていても問題はありません。例えば、私が〝緑〟といっているとき、もしかしたら見えているものは〝赤〟かもしれません。相手が〝緑〟といっているとき、〝青〟が見えているかもしれません。しかし、同じモノを見たとき、私は〝赤〟に見えていても〝緑〟と答え、相手は〝青〟に見えていて〝緑〟と答えたなら、これでも話は通じるわけです。それが、そうなっていないかどうかなんて、調べる方法はありません。

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