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ヒクソン・グレイシー危機一髪!『400戦無敗』の男がもっとも苦しんだ闘いとは?

マイナビニュース / 2024年8月23日 17時10分

──そんなことがあったのですね。
「何とかしなければと思ったよ。でも腰の状態が良くならないまま2カ月が過ぎた。試合まで、もうあと2カ月しかない。私はリオ・デ・ジャネイロに戻り、さまざまな治療法を試すことにしたんだ。
その甲斐あって腰の痛みは徐々に治まった。さまざまな方法を試したから実際のところ何が良かったのかは私にもわからない。スケジュール通りの練習、コンディション調整はできなかったが『これで何とかなる』と思ったよ」

──追い込んだ練習をしないまま来日した?
「そうだ。でも試合まで、まだ1カ月あった。日本に着いて記者会見、(大会告知のための)テレビ出演を終え山に向かい、そこで最後の追い込みをするつもりでいた。
だが、そう上手くはいかなかった。
山に籠っての初日、組み合いの練習中に腰に激痛が走った。最終調整のトレーニングメニューは弟のホイラーが作ってくれていたのだが、それをこなせるコンディションではなくなってしまったんだ」

──そのことは大会主催者にも伝えなかった?
「言えるわけがないだろう。ここまで来てキャンセルなんてできない。練習はやめて回復に努めたよ、痛みが消えることを信じて。安静にしたことで幸い痛みは感じなくなった。これなら闘えるだろうという状態までは戻せた。だから『やれる』との自信を持ってリングには上がったよ。

──そんな状態にあることは相手陣営に知られたくない。隠すことにも神経を使ったのでは?
「それは考えていなかった。自分のコンディションを少しでも良くすることに必死だっただけだ。相手は関係ない、自分自身との闘いだから。
あの試合で私の動きがパーフェクトでなかったのは、そういうことだ」

あの時、ヒクソンは40歳目前。長年闘い続けてきたことによる肉体のダメージには抗えない。それでも強靭なメンタルで修羅場を潜り抜け「最強伝説」を死守したのだ。
それから1年半後の船木誠勝戦(2000年5月26日・東京ドーム『コロシアム2000』)がヒクソンのラストファイトとなるが、ここでもまた試練が待ち受けていた─。
〈次回、『ヒクソン・グレイシー『最後の闘い』。視力を失った危機を如何に乗り越えたのか?』に続く〉

文/近藤隆夫

近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
『伝説のオリンピックランナー〝いだてん〟金栗四三』(汐文社)
『プロレスが死んだ日 ヒクソン・グレイシーVS髙田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル) この著者の記事一覧はこちら
(近藤隆夫)



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