1. トップ
  2. 新着ニュース
  3. ライフ
  4. ライフ総合

ヒクソン・グレイシー『最後の闘い』。視力を失った危機を如何に乗り越えたのか?

マイナビニュース / 2024年8月26日 17時10分

「ホイラーの声は聞こえていたよ。でも、立つわけにはいかなかった。フナキが私の足を蹴ってくる。仕方なく蹴られながら視力が回復するのをジッと待った。
私は常にイメージしていた。闘いの中で自分に起こるかもしれない多くのことを。時に想像を超えたことが生じる場合もある。それがリアルな闘いであることも認識している。
イメージを膨らませて物事を考えてきたこと、極限まで肉体を追い込むトレーニングに身を浸してきたこと、そして積み重ねてきたファイトによって『いかなる状況においてもパニックを起こさない』メンタリティがつくられていたのだと思う」

そして続ける。
「後にビデオで試合を見返したら、私が視力を失っていたのは40秒ほどだった。右目の視力が少しずつ回復し、闘える状態に戻った。それでも視界はぼやけていたからストレスを抱えたままだった。そんな中でも闘い抜き勝ち切ることができたことは、良い経験になった」

視力を取り戻したヒクソンは、攻勢に転じる。縺れ合い寝技に移行しマウントポジションを得ると、そこからは独壇場だった。最後は背後に回り、チョークスリーパーを決める。
タップを拒否した船木は失神し、試合は終わった。

それから13年後、すでに現役を引退していたヒクソンに尋ねた。
「日本で闘った9戦の中で、もっとも印象深い試合は何か」と。
彼は言った。
「フナキとの闘いだ。彼はウォリアー(戦士)だった。死を覚悟して私に向かってきた。チョークは完全な形で決まったが、それでも最後まで諦めずタップもしなかった。強い心の持ち主だったよ。結果的にあの試合が私のラストファイトになった。その相手がフナキで良かったと思っている」

グレイシー一族の存在がなければ、『第1回UFC(ジ・アルティメット・ファイティング・チャンピオンシップ)』は開催されなかった。つまりは総合格闘技の発展はなく、『PRIDE』も『RIZIN』も誕生しなかったということだ。そのグレイシー一族の中で最強を誇ったヒクソンの雄姿は、格闘技を愛する我々の脳裏に深く刻まれ、永遠に消えることはない─。

文/近藤隆夫

近藤隆夫 こんどうたかお 1967年1月26日、三重県松阪市出身。上智大学文学部在学中から専門誌の記者となる。タイ・インド他アジア諸国を1年余り放浪した後に格闘技専門誌をはじめスポーツ誌の編集長を歴任。91年から2年間、米国で生活。帰国後にスポーツジャーナリストとして独立。格闘技をはじめ野球、バスケットボール、自転車競技等々、幅広いフィールドで精力的に取材・執筆活動を展開する。テレビ、ラジオ等でコメンテイターとしても活躍中。『プロレスが死んだ日。~ヒクソン・グレイシーvs.高田延彦20年目の真実~』(集英社インターナショナル)『グレイシー一族の真実 ~すべては敬愛するエリオのために~』(文藝春秋)『情熱のサイドスロー ~小林繁物語~』(竹書房)『ジャッキー・ロビンソン ~人種差別をのりこえたメジャーリーガー~』『柔道の父、体育の父 嘉納治五郎』(ともに汐文社)ほか著書多数。
『伝説のオリンピックランナー〝いだてん〟金栗四三』(汐文社)
『プロレスが死んだ日 ヒクソン・グレイシーVS髙田延彦 20年目の真実』(集英社インターナショナル) この著者の記事一覧はこちら
(近藤隆夫)



この記事に関連するニュース

トピックスRSS

ランキング

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

記事ミッション中・・・

10秒滞在

記事にリアクションする

デイリー: 参加する
ウィークリー: 参加する
マンスリー: 参加する
10秒滞在

記事にリアクションする

次の記事を探す

エラーが発生しました

ページを再読み込みして
ください