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熊本大など、室町幕府滅亡約1年前に織田信長が細川藤孝に送った書状を発見

マイナビニュース / 2024年9月10日 16時26分

なお、信長と義昭は最初から対立していたわけではなく、その逆で、永禄11(1568)年10月に、信長が義昭を推戴(すいたい)して上洛し、幕府体制を樹立している。しかし、その後、両者の仲は悪化していき、元亀4年2月には義昭が信長に対して挙兵。さらに同年7月には再度挙兵するが失敗し、室町幕府は滅亡することになる。その経緯を知る上で、今回の書状には非常に重要な以下の新情報が含まれているという。

元亀3年初頭の段階で、信長と義昭側近衆(「奉公衆」)との関係がほぼ修復不能なまでに悪化していたこと
ところが、義昭の側近中の側近だった細川藤孝ただ一人が、信長と通じていたこと
当時、岐阜にいた信長は藤孝を頼り、藤孝を通じて、山城(現・京都府南部)から摂津・河内(現・大阪府)方面の領主たちの信長方への組織化を、半年にもわたり進めていたこと

今回の書状から、藤孝による畿内領主層の信長方への組織化が元亀3年8月ごろから本格化した事実が判明し、翌年2月の義昭の信長への「逆心」・挙兵の時点で、すでに半年にも及んでいたことが明らかにされた。これは、義昭の反信長の挙兵が畿内領主層の協力不足のために不発となった事実を考える上でも、とても重要だという。
信長の権力のあり方を大きく左右した細川藤孝の存在がクローズアップされる形となった。室町幕府の政治が混迷の一途を辿った元亀年間(1570~1573)、信長の京都における頼みの綱が藤孝だったのである。藤孝は13代将軍の義輝や義昭の配下として活躍したが、最終的には「室町幕府の滅亡」を実現させるキーマンともなったことになる。今後は、信長と幕府権力のあり方を大きく左右した細川藤孝の畿内領主層との人脈、当該時期における彼の具体的活動や政治思想を究明することが、「本能寺の変」を含む織田政権期の政治史研究にとっての大きなテーマとなるとしている。
(波留久泉)



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