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カレー沢薫の時流漂流 第333回 苦手な教科、好きな教科、憎い体育

マイナビニュース / 2025年1月6日 15時53分

画像提供:マイナビニュース

先日、ヒャダインさんが寄稿した「体育」についてのコラムが話題になっていた。

内容は一言で言うと体育への「憎悪」であり、全国の体育大嫌いキッズと元キッズたちが何故体育を嫌い、恨むにまで至っているかを見事に言語化していると賞賛されていた。

注目すべきは、運動行為やスポーツ自体を嫌っていたわけではなく、それを強制的に行わせる体育という制度、そしてそれを執行する「体育教師」という存在を恨み、坊主憎けりゃ袈裟までファッキューの精神で、スポーツまで悪印象を抱くようになったという点である。
○数ある教科のなかで、なぜ「体育」だけが?

どの教科にもそれが苦手な生徒はおり、それをやらされているのだから「俺様が苦手なことをさせるな」というのは、一見わがままなようにも聞こえる。

しかし、国語とかであれば低得点の答案が他の生徒に晒され「まず自分の名前が漢字でかけてない」ということがバレることはないし、私の時代ですらテスト順位が貼りだされるなどということはなく、そういうのはときメモの中だけで行われるフィクションという位置づけだった。

だが体育はそのような「公開処刑」が今でも毎時間行われているのだ。

さらに他の教科は苦手だろうが得意だろうが、所詮「個人戦」であり、理科などで班活動があったとしても「班対抗フラスコ割り選手権」が行われることは滅多にない。

だが体育だとチーム競技が行われることも少なくない、それが「ポリネシアン横跳び(団体)」など、誰もルールを知らず、勝利も敗北もないまま孤独なレースが続いていくタイプの競技なら良いのだが、大体の場合勝敗がある。

よって運動ができないキッズは、個人競技ではその出来なさを笑われ、団体競技では他の生徒に迷惑がられと、トラウマレベルに嫌な思いをしがちなのだ。

しかし、学校は自分の得手不得手を知る場でもあるし、どうせ社会に出たら出来不出来をジャッジされるのだ。全員で手をつないでゴールなど、勝敗や順位付けを徹底的に避ける教育が正しいとは限らない。

しかし、何のために得手不得手を知った方がいいかというと、得手を伸ばし、不得手を避け、時に捨てるためである。

実際私は、数学が地獄のように苦手だったため、数学は早々に捨てて授業中は心を手放した関口メンディのような顔でやりすごしていたが、その顔のまま席を立ち、両腕を回転させない限りは注意されなかったし、テストで20点を取ったとしても親に渋ヅラをされる程度だった。

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