藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#42 和の所作
NeoL / 2017年5月26日 15時17分
藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」#42 和の所作
能に興味を持つことになろうとは。
否定的な思いこそなかったが、能は、銀座のクラブと同じくらいに遠い存在だった。それがひょいとしたきっかけで齧り始めることになった。友人がとても楽しげに能習いの楽しさを語る横で、やってみたいと手を挙げてしまったのだから、我が好奇心の見境の無さには改めて驚く。
初回は神楽坂の裏手にある場所での稽古だった。駅を降りて、赤城神社の脇をさらに下った先にあった。やや緊張した面持ちで入っていくと、気さくな人々ばかりで安堵した。重要無形文化財である先生も同じく気さくで、初めから楽しい学びとなったのも幸運だった。
稽古は、謡と舞に分かれていて、まずは謡である。板の間での正座は堪えたが、腹の底から声を出すことの気持ちよさが素晴らしく、舞では能と言えばの「すり足」が難しくも、背筋を伸ばして脱力せよという先生の指示に、合気道や瞑想との共通点を見て、心が前のめりになった。
稽古は夜だったが、その昼間に大阪から新幹線で東京へと着き、重いスーツケースを引きながら、その足で新富町の足袋屋で、お能用を求むと言った時に差し出されたものを買い、日本橋の宿に荷物を預け、打ち合わせに間に合わせ、食事を簡単に済ませてから、向かった神楽坂であった。
要は、そんなに忙しない思いをしてまで、その時はすでに、お能に入り込んでいたのだ。とは言っても、実際に稽古を体験するまでは、いつもの好奇心のなすがままの一行動に過ぎなかったのだが、稽古を終えた途端に、これは学ばなくてはいけない、と気持ちを固めた。
何がそうさせたのか。
まずは、素敵だったから。とてもとても日本的で、そういうものを知らずに、もしくは避けるように成長し、生きてきた者にとっては、ミャンマー奥地に伝わる秘術よりも、未知で新鮮なのだった。もちろんこれは例えであるが、単純に歳を取って安易に回帰的なっているだけかもしれない。若い自分だったら、歳取って能にいくなんて、と軽蔑さえしていたかもしれない。だが、そんなことはどうでもいいのだ。開き直るというよりも、自分の声だけに従う素直さを得たような気がする。その声が、能だろ?と言っているのだから、よかろう。
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だが、能に惹かれた最も大きい理由は、これはヒーリングなのではないか、という勘が働いたからだ。
背筋を伸ばして脱力。これは心身の調和が望める理想的な状態である。
私たちは、小さい頃から頑張ることを良しとされて育てられてきた。目標を設定し、もしくは勝手に設定され、それが達成できると、息つく間もなく、次の目標が掲げられる。強迫的な達成感を、それが勝利の味と思わされ、ただひたすらに上へ上へと常に強張りながら、緊張を強いられながら、暮らしてきた。その結果、心身が休むこと忘れ、休ませ方さえも忘れ、休むことが怠惰とされて嫌われてきた。
病気というのは、緊張が解けないことによって生まれる。天真爛漫に生きている人は、癌どころか病気にさえならない。
かく言う私も三十そこそこの頃に、ある気功師さんに、君の心身は休み方を忘れてしまっている、と看破せれ、考えさせられたものだった。酒を飲み、リゾートホテルでいい気になっても、常にどこかで緊張していて、そう、私は若かったのに疲れていたのだった。
最近親しくしていたある人は、常に肩こりに悩まされていた。一目見た時から、この人の肩こりはやっかいだなと感じた。大声をあげて笑い、はしゃいだ後に、ぼんやりと外を暗い目で眺めていたりする。そういう人だった。凝りというのは血流のある部位における停滞である。そこをマッサージなどでほぐせば、一時は解消されるが、しばらくすれば元に戻る。
だが事はそんなに単純なものではない。それは体だけの説明であって、原因は体だけにはないからだ。肩こりなどの言わば、偏りのある人は、心の偏りと呼応していて、そちらが原因であることもある。いや、むしろその人の場合は、精神状態を改善しなければ、治らないような肩こりに思えた。
肩こりに悩まされている人は、何かに執着する傾向にある。執着というと悪い感じがするが、何かの趣味にはまりやすいとうこと自体は悪いことではない。ストレスの発散ということで良い面もある。
だが、仕事、家庭、恋人、趣味、食べ物、煙草への思いが、度を越すと、もしくは度を越しがちな状態は、言わば偏りである。精神の流れがどこかで停滞して、自己中心的で断定的な考え方思い方が増える。
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私がやっかいな肩こりだなと感じたある人は、表面的には礼儀正しく、しっかりとした言葉遣いややり取りもできるのだが、常に自分が優位な状態でいようとする極度の負けず嫌いで、対話による判断はせずに、自己完結的に決断する人だった。
肩こりの相談をされるたびに、心の改善を切り出そうかと何度も思ったが、まだその人にはその準備ができていないだろうと、結局言わずにおいた。心の改善などは、本人の気づきがないと、スタートさえできない。その人の成長と共に、痛みという偏りも消えていく。
若い時ならば、風船のようにただ表面を張って生きていれば、見栄えもつく。だが中身は空気しかない。空気を送り、張り続けられる時期が過ぎてしまえば、ただ萎み、シワが増えて、やがて小さくなってしまう。
やはり心身に芯が欲しい。外ばかり張り続けるのではなく、芯があることから来る気持ちの張りが身体の張りを生む。
前置きがとても長くなってしまったが、能で言われた、背筋を伸ばして脱力というのは、とても難しいものだ。逆に言えば、それができるようになれば、おのずから心身の調和がとれ、偏りもなく、全てが順調に流れ、病気が取り付く場所がない。
私たちは、頑張って緊張をして何かをすることばかりで、脱力することが不得手である。だからこそ、学ばなくてはいけない。自分自身と調和をとり、心身共に病気にならずに、幸せな満たされた日々を送るために。
能というのは、その学び場となると思う。そこにある和の所作の源泉を習うことで、崩れがちな心身のバランスを調整する一助になると私は直感している。
和の所作とは、その静謐な動作と優雅さと知性のことだが、突き詰めると、すり足になると思う。
何度かの稽古をしただけでも、すり足の難しさと大切さは身にしみる。理由を簡単に言うなら、私たちはあまりにも洋服を着慣れてしまったからである。着物姿では、すり足が最も無理なく歩ける。つまり骨盤に帯を巻き、腹を据え、下半身を安定させて、すり足ですすっと進むのが着物の歩き方である。すり足ができない着物姿の人は、歩く以前の立ち姿もどことなく妙できまらない。普通の洋服姿だと、乱れた姿勢でもなんとなくそれも良かったりすることもあるが、着物姿で乱れてしまうと、目を背けたくなる。それはその人の内面まで疑われてしまうような結果にすらなる。
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すり足には、大腰筋が大きく関係するのだが、ここはとても鍛えにくく、普段からすり足だった着物時代の人なら使えても、現代人には、それがどういう場所にあるかすらも想像できないだろう。
大腰筋に関しては、能楽師・安田登さんの著作「身体能力を高める和の所作」「和の身体作法」などに詳しいので参照していただきたい。すり足の行い方なども詳しい。それを練習していく中で、室町時代から続く、能の真髄をちらりとでも感じられたら。能に見られるようなすり足を完璧にこなすのは、かなり難しいだろう。
また、能は見るのもいいが、実際やってこそ楽しいとよく聞く。実際稽古を通してそれを実感した。
千駄ヶ谷にある国立能楽堂では頻繁に舞台があるので、気軽に見る事ができる。その永遠に続くかのようなゆったりとした動作を見つめていると、眠くなっても来るのだが、そこを乗り越えて、さらに見ていると、舞台に立つ人との同期が起こり、能楽師の心身の調和が見ているこちらの心身にも移って、癒されていくのが分かる。
ああいうのは、同じ場所で、同じ時を、遅々として過ごさないと起こらない現象かもしれない。
能は、武士の嗜みとして、武士が伝えてきた芸能でもある。室町からの武士の魂がそこに宿っていて、それと同期するというのは、かなり刺激的なことだ。突き詰めれば、基本にあるすり足こそが鍵である。八十歳を過ぎた能楽師が若々しく飛び跳ねる。あの身体能力は、すり足から始まっているのではないか。能の動きが集約されたすり足を学ぶことによって、先代に同期し繋がる。そして心身の調和を生み出す。
それなりの修練は必要だが、まずは能をひとつのヒーリングとして捉えて、そこから和の所作のエッセンスを見出し、自身の健康に役立てていくという作業は、実にスリリングだと思う。
是非、能楽堂へ。同期しに。
※『藤代冥砂「新月譚 ヒーリング放浪記」』は、新月の日に更新されます。
「#43」は2017年6月24日(土)アップ予定。
関連記事のまとめはこちら
http://www.neol.jp/art-2/
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