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Fiction Issue: ワカモノ考 #01 Interview with Kazuki Iwabuchi

NeoL / 2017年6月18日 15時59分

写真

Fiction Issue: ワカモノ考 #01 Interview with Kazuki Iwabuchi



「ユースが消費されている」と思うようになったのはいつからだろう。メディアにはミレニアル世代を形容するありとあらゆる言葉が並んでいる。そこで描かれる彼らは、なんでもやってのけてしまいそうで、力強くも見える。でも、そうである必要は何もない。彼らは商品じゃない。弱くても、悩んでいても、何者でなくても、たとえ何者にもなれなかったとしても、魅力的なユースはいる。足りないのは、今のユースの本当の姿を、出来るだけまっすぐに伝えるということ。ただそれだけ。


日本の新人写真家の登竜門とも言えるキヤノン主催の公募コンテスト、写真新世紀が今年も開催される。著名な写真家を多く輩出してきたこのコンテストに参加を決めたユースのありのままの姿とは。公募締め切りを目前に控えた6月12日、応募者の一人である岩渕一輝氏に今の心境を語ってもらった。




——今回写真新世紀に応募した作品は岩渕さんのお祖父さんが亡くなるまでを記録されたものですよね。


岩渕「そうです。今回の写真が自分の写真家としての第一歩になったらいいなと思って応募しました。それくらい自分にとって意味のある写真だったんです。お祖父さんが与えてくれた最後のもので、最高のプレゼントでした」


——私も作品を見せていただいたとき、すごく心に届くものがあるなと思いました。人の「死」という悲しい事柄を切り取っているはずなのに、強いパワーを感じたんです。


岩渕「『容態が変わった、もう保たないだろう』と岩手の実家から連絡をもらったとき、ふと、いまなら何か撮れるかもしれないという気がして、カメラを持って帰省したんです。岩手に着いてからは、お祖父さんの病室で無我夢中でシャッターを切りました。写真の中には、悲しいとか寂しいとかいう感情は入っていません。ひたすら冷静に病室で写真を撮り続けていたから、悲しくなる時間もあまりなくて。泣いたのは3回だけです」


——その3回はどんな時でしたか?


岩渕「1度目は病院の先生から『○時○分、ご臨終です』と言われたとき。残りの2回は棺に遺体を入れて蓋を閉めたときと、火葬の着火ボタンが押されたとき。死を実感した瞬間だけですね。あの写真にとってお祖父さんが死んだっていう事実は、そんなに重要ではないんです。お祖父さんという被写体を淡々と撮り続けるだけで、何も考えていませんでした。出来上がった写真を見てはじめて、写真でこんなことが出来るんだと気付かされました。死じゃないものが撮れていたんです。お祖父さんの身体が新しい生命体みたいに写っていました」






——写真の可能性に気付いたという岩渕さん自身の“変化”がさらにあの写真を意味付けしているのかもしれませんね。


岩渕「いつも端っこにいて何のグループにも属せなかったから、認められたい、僕を認識してもらいたいという気持ちが常にありました。上京して、ファッションスナップを撮られたいからおしゃれをするようになったけど、結局大したことなくて。じゃあ撮る側になってみようかな、とカメラを持つようになったのがきっかけです。人に見られることが前提でスタートしているから、撮り始めたころはこんなにいい写真が撮れたとか、綺麗な写真が撮れたっていうので満足していました。だけど、だんだんそうやって“誰かに見せるための写真”を撮っていることに疲れてきて、一時期少し写真から遠ざかるようになったんです。そんな時に久しぶりにカメラを構えたいと思わせてくれたのが、お祖父さんの死でした。そうして撮ったものが、自分が今まで撮ってきたものとは全く別の、写真としての機能を果たしていたことに気付いたんです。写真から新しい自分を発見できたような気がしました」


——自分を見つめ直したり、新しい発見をしたりする方法は、写真を始める前にもありましたか?


岩渕「ありません。強いて言うなら、他人から指摘されることが自分を見つめ直すためのたったひとつの方法でした。写真を始めたことで、客観的に自分を見つめることができるようになって、やがて写真を通してでなくてもその視点を持つようになりました。今の自分を客観的に見たとき、“誰かに見てもらう”ということにそんなに重点を置いていなかった。その事に気付かせてくれたのが、あのお祖父さんの写真でした。でもそうは言っても、やっぱり誰かに評価されたいという欲からは抜け出せていないんですけどね。ヘンリー・ダーガーっていう引きこもりの男性が生涯をかけて書き上げた世界最長の小説があって。その作品は彼の死後全くの他人によって発見された、というのを聞いて、僕だったらそれは嫌だなと思ってしまったんです。自分の作品が表に出ないまま死んでしまうなんてやっぱり嫌だと思います。認められたいという欲から抜け出せたらそれは一番いいのかもしれないけれど、所詮僕だから、結局そこから抜けることはないんだろうなって」











——これは個人の見解ですが、それでも岩渕さんの写真は嘘くさくない、フィクションじゃないなと感じるのは、岩渕さんが憧れる誰かや何かに近づこうと、取り繕ったり自分を偽ったりしないからなんだと思います。


岩渕「確かに明確なゴールがないという意味ではそうかもしれません。でもそんなかっこいいものじゃないんです。まだ自分の中でも彷徨っているから、どう在りたいというのも定まってない。ここ(インタビュー場所)に来る前にトイレに寄ったんですが、トイレットペーパーが無くなりそうになっていたんです。新しいものに取り替えようと、ホルダーから外して手に取ったら、勝手にパラパラと紙が外れていって。それは芯がないタイプのものだったみたいで、紙が終わったら芯が出てくると思っていたのに、最後には紙の端っこしかなかったんです。周りのものが全部外れたら、何もない。これってなんか僕みたいだなと。なにも持ってない人間なのに、周りから得た知識をぺたぺたと貼付けているだけで。かっこ悪いんですよね」


——でもだれも元から芯なんてないから、最初は頑張って外からぺたぺたと貼付けていくことで軸となる部分を作って、後からそれを大きくしていくものなんじゃないですか。


岩渕「一人、すごく信頼している先生がいて、その人の芯はちゃんと内側からしっかりあるんです。ついでに言えば、いい匂いがして消臭効果もあるくらい(笑)佐々木先生という70歳くらいの先生で、僕の学校で英語を教えています。彼は写真は撮らないんですが、すごく良く見てくれていて、僕が写真を撮る者としてズレた方向に進もうとするとそれを正すためのヒントを教えてくれます。どう撮るかではなくて、どう在るべきかというのを示すのに、こういう捉え方があるよっていう選択肢を与えてくれるんです。選択肢を与えたあとは、手を引いて連れていってくれるわけではなくて、「ほら、考えてご覧なさいよ」と促してくれます。彼が示す方向が正しいのかどうかは別として、今は佐々木先生を誰よりも信頼しています」












——今回の写真新世紀に応募した作品を見たとき、真っ先に連想したのがアラーキー(荒木経惟)の『センチメンタルな旅・冬の旅』(新潮社、1991)でした。同じく「近しい人の死」を切り取った写真ですよね。どうしても後から出てきたものがフィクションに思えてしまうというのは写真に限らず言えることだと思います。それでも私は、岩渕さんのあの写真が絶対にフィクションではないと感じました。


岩渕「アラーキーは自分が病気で死にかけたという経験がある人ですよね。だから “死”が作品に色濃く出ていて。だけど僕にはそれがないから、作品と死をリンクさせることが出来なかったんです。 “死”よりもむしろ “生”のほうが身近だった。だからお祖父さんが生きた99年間のうちの、ほんの少しの間に見せた最後の表情が新しい命みたいに見えました。応募作品には、作者のステートメントを一緒に添えることになっているんですが、最初は格好良く書かないと、という思いにとらわれていたんです。でもそのとき佐々木先生に、『下手な詩を書いて言葉が作品の上に立つようじゃ、写真を撮っているなんて言えないよ』と言われて。僕はそれを、言葉で自分が嘘をつこうとしていたのを見抜かれたんだな、と解釈しました。扱い方ひとつで、写真はいつでもフィクションになっちゃうんだなって」


——ここでもまた、佐々木先生が指針となってくれているのですね。


岩渕「先生が以前『自分に自信が無くなったら写真を続ける資格がない』と言っていました。写真を撮り続けることに漠然とした不安を感じることももちろんあって、気持ちは上がったり下がったりを繰り返しています。それでも自分にはなにかあるんじゃないかと思う事にして、また写真を撮り始めるんです」


——岩渕さんの行動の原点には “自分”というものが大きくあるのでしょうか。


岩渕「今撮りたいなと思っている女の子がいるんです。高校のときに付き合っていた彼女なんですけど、久しぶりに再会したらどういうわけかものすごく惹かれてしまって。なんで彼女に惹かれたのか、それを突き止めたくて『写真を撮らせてください』とお願いしました。それがノスタルジーなのか、それともあのときから彼女の中で起きた変化を何かしら感じたのか、見当が付かないからこそ、知りたいって思いました。自分勝手ですよね」








——岩渕さんが撮る女の子はすごく魅力的な反面、時たま“嫌な女”にも見えると前に言ったことがありましたね。美しいのと同時に生々しい。巨匠・篠山紀信が善意の写真家だとすれば、その逆というか。その女の子がどう見られたいか、ではなく、岩渕さんがどう見ているかのほうが前に出ているんです。


岩渕「最近になって、写真を始めたころからずっと撮ってきた女の子をいつの間にか撮らなくなっていたことに気が付きました。前までの彼女は、なにもかもが澄み切っていて、いろんなことを吸収しながら生きていたからたくさんの表情を持っているように見えていたんです。僕もそんな彼女の、余白があって柔軟性のある表情にどうしようもなく惹かれていました。でも彼女が表舞台に立つことが増えて、雑誌やメディアを通して彼女を見るようになってから、そこに写る彼女にあまり被写体としての魅力を感じなくなった。あのときに僕が感じたことを感じなくなっていたんです。そうやって偉そうに言っているだけで、どれが本当の彼女らしさなのかは自分にも分かりません。でも彼女の強い人間性と澄んだ魅力はよく知っている。だからもう少しお互いが成長して、これまでとは違う別の糸口でそれを引き出せるようになったら、2人でまた写真を撮りたいです」


——本質は変わっていなくとも、たくさんの物や情報に晒されているうちに一人の人間の中で変化が起きるというのはきっと自然なことですよね。岩渕さんの中でそういった変化はあったと思いますか?


岩渕「3年前の上京したてのころは、毎日が楽しくて仕方なかったんです。東京っていう大都市に放り出されて、日々新しい発見があって。だけどしばらくすると、だんだん東京に魅力を見つけられなくなってきました。そのときにアドバイスをくれたのはやっぱり佐々木先生でした。先生は『それは東京に魅力がなくなったんじゃない。キャッチできていないだけだ。自分が何処を見ていたいかが定まっていて、じっと観察を続けていたらどこにだって “何か”は見つかる』と」


——上京して3年が経って、今の日々をどう感じていますか。


岩渕「上京と同時に写真を撮り始めて4年目ですが、今がスタートラインだと思っています。本当にダメ人間だから、いままで継続してやってきたことって写真以外になくて。撮りたいものが常にポンポン出てくるわけじゃないけれど、ここでやめるわけにはいかないんです」










岩渕一輝
1995年生まれ、岩手県出身。 現在大学4年生。




Text&Interview Makoto Kikuchi
Photo Kazuki Iwabuchi

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