藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #3 娘との約束
NeoL / 2019年4月8日 6時0分
卒業式を終えた娘が、約束の店で待つ僕の前に現れた時、僕はあらかじめ着ていこうと決めていたものと異なるTシャツを身につけていることに気づいた。娘が僕の胸を見て、just do itを語尾のイントネーションを上げて読み、僕は微かに非難されたような気がした。
ジムで着ているそのTシャツではなく、昔セールで買って大切に着ているMARNIを選んでおいたことは、世の中の流れに大豆の根の繊毛ほどの影響を与えないことは勿論知っているが、何しろ娘に会うのは3年ぶりだったから、一応気を遣ったつもりだったのだ。
ここまでの文が、読点が多い長い文になっているのは、その時の僕の動揺を反映したもので、少しでも読者と分かち合うための、ささやかな努力であることは、伝わるとは思えないが、そうとしか出来ないことは、宝クジの列に加わった経験がある人なら、なんとなく分かると思う。
娘は、just do itと口の中で繰り返してから、自分で椅子を引いて、たこ焼きの型に収まるようにちょこんと沈んだ。
タイミングよくテーブルの淵に現れたウェイターに、「本日のピッツァ」の内容を尋ねると、ちょっとお待ち下さい、と言い残して消えた。
「ちょっと」と「お待ち下さい」の組み合わせはないんじゃないかな、と神経質なことが脳裏を過ぎったが、それは娘の一言によって消えた。
「わたし、ピザ食べたくないな、今日は」
僕は一瞬意味を失った。この店にしてねと先週メッセージを送ってきた娘の瞳の中には、軽蔑と非難の色がそれほど強くはないにしても、しっかり光っていた。
僕は、「でも」と心の中ですら言いかけることなく、サラダビュッフェでドレッシングを選ぶ時のような気軽さで、「じゃあ、違うところに行こう。どこがいい?」と応えた。娘は僕が困惑すると予想していたのか、ちょっとした驚きを隠せずにいた。初めて見るキャラクターに対して、子供が見せる表情ってこんな感じだったような気がする、と僕は思ったが、それは勿論口にしなかった。
「ちょうど近くに美味しい中華の店もあるし、嫌いじゃなかったら、ベトナム料理の店も知ってる。パパは何でもいいからさ」
ゴールデンウィークの初日をくじで当てたスペイン旅行で、しかも快晴の湿度低めで迎えたとしても、僕はこれほど機嫌よく話せないだろうというくらい、爽やかで思いやりに満ちた声による言葉だった。つまりそれは、一年と数ヶ月に一度あるかないかのことであった。500日に一度と言った方が、分かりやすいだろうか。
「でもピザでいいよ。ここを指定したの、あたしだし」
「そうか、それならそうしよう。パパはここ初めてだけど、他のテーブルに運ばれていくのを見た限りでは、とても美味そうだった。ナポリピッツァの典型だね」
僕は、娘がそれをそう呼んだピザではなく、ピッツァと発音したことを少し気にした。こういった些細なずれが、異なる到着地を生んでしまうことを経験的に知っていた。
「じゃあ、あたし、これにする」
メニューを開いた途端に娘はある一点を左手の小指で刺した。「指した」の誤字ではない。貫きこそしなかったが、ある一点を強く突いたのだ。なぜかは知らない。僕の知らない娘の習慣なのだろうか。とにかく娘の刺した場所には見慣れない固有名詞がおそらくイタリア語で書かれてあった。僕はそれを上下逆から見て、思わずノブゴロド王国を思い浮かべた。遠い日の世界史の授業で強制的に押し付けられた名前が、鮮明に残っているのは意外だった。僕は好きなものだけを選んで、好きなことだけをして生きていると思っていたからだ。
僕はノブゴロド王国とマルゲリータと、ハウスサラダ、サンペリグリーノをウェイターに頼んだ。ビールはなんとなくやめておいた。3年ぶりの娘との邂逅である。そういうのは必要ないんじゃないかなと頭で考えたのだ。
「デザートは後で決めよう」
僕は、爽やかにそう伝え、娘は頷きもしなかった。
少しの沈黙の間に僕は次のことを、漫画の吹き出しを埋めるかのように考えた。
・ 左利きだったっけ?
・ ほんとうにピッツァでいいのかな?
・ なんで不機嫌?
・ いや、思春期?
・ いや、性格?
・ Just do itがまずかった?
・ adisas派?
「とにかく、卒業おめでとう」
「ありがとう」
娘は、この日初めての笑顔を見せてくれた。祝福というのは、やはり人の心を動かすのだろうか。だが、それは単なる反射だったのかもしれない。娘はスマホを取り出すと、左で保持し、スクリーンを左手の指先でこねこねし始め、無表情を顔に貼った。読心術の達人だったら、それを本日営業終了と読んだはずだ。
だが、僕とて500日に一度の上機嫌である。風に吹かれた蚊が目に入るのをまばたきで防ぐような自然さで、娘の営業終了から一旦心を解き放ち、窓の外で揺れる五分咲きの桜を眩しげに眺めた。
目を疑った。娘の母である元妻が、桜の樹の下で何か茶色いものを食べていて、僕と目が合ったのだ。
混乱した。茶色いものは今川焼だと思うが、混乱の主因は、そこではなく、当然ながら、なぜそこに元妻がいるのかということで、僕には瞬時に処理できなかった。
・ 迎えに来たのか?
・ 早すぎないか?
・ 企んでる?
・ 少し老けたな。
・ でもまだ十分綺麗だな。
・ まだ怒っているかな?
・ それも仕方ないけどな。
などと瞬時に思い考え、結果見なかったことにした。もし娘が何気なく左に首を回し、窓の外を見たら間違いなく元妻に気づくだろう。
ピッツァが運ばれてくるまでの15分、テーブル上では、とてもモダンな景色があった。二人は、それぞれのスマホをいじり、眺め、微笑んだり、ため息をついたり、無表情などを浮かべ、向かい側にいる人間は、現実の添え物のように在るばかりだった。
アステカ人がそれを見たら、おそらく神聖な儀式だと見なすだろう。殷の皇帝が見たら、蛮族の易経として焼かれるかもしれない。だが、現代においてこの風景は、シャワーを浴びるくらい当たり前のことなのだ。そこにコミュニケーションの問題をねじ込む人たちは、おそらく天国でも雲の量に文句をつけるだろう。
「あたし、シェアとか嫌いだから」
ピッツァが運ばれてくると、娘はレジのバイトが合計額を伝えるように言った。僕は、今日はこういう日だから仕方がない、と改めて自分の受け皿としての寛容さを信じるしかなかった。「柳に風、柳に風」
「冷めないうちに、どうぞ」と僕が言い終わらないうちに、マルゲリータが僕の目の前にストンと置かれた。月並みだが、熱々で美味しそうだと思い、そのままそれを声に出した。
「当たり前じゃん、レストランなんだから」
娘は国語のテストでいつも赤点をとる同級生に見せる哀れみを、僕に向けた。魚編に有と書いてマグロでしょ?とでも言うように。
スマホが助け舟のようにバイブで揺れたので、ごめん、仕事のメールかも、と娘に一応断ってから画面を見ると、元妻からだった。
「元気?ハートマーク」
僕は娘に悟られないように、ゆったりした何気ない動作を装って、窓の外を見た。妻はこちらを見ながら白っぽいものを食べている。ツナサンドに違いなかった。彼女の好物で、日曜日によく作ってくれたものだ。今川焼からツナサンドってなんだろう?なぜ、桜の樹の下で食べているのだろう?と割としっかりと疑問を持ってから、目を逸らした。
「ごめん、メールの返事するね」
一応娘にそう断ってから、ささっと返した。
「どうしました?何か問題が生じたのでしたら、教えて下さい。ツカサは白いピッツァを美味しそうに食べてます。ジュースは要らないようなので、ガス入りの水を飲んでます。サラダも遅れてますが、そろそろ来るでしょう。そのあとで、デザートも多分食べますから、あと小一時間はかかりそうです。」
そう打ってから送信しておいた。
サラダが運ばれてくると、娘はちらりと見ただけで舌打ちをした。どうやらお気に召さなかったようだ。「柳に風、柳に風」僕はサラダを少し自分の受け皿に取り、念のため娘にも「いる?」と聞いた。
「当たり前じゃん」という返事だった。えっ、どっちだろう?と思ったが、口に出さずに、娘の受け皿にもサラダを取った。
「当たり前じゃんて、言った」
娘の一言で、不要を意味していたことを知った。沈黙は流れない。沈黙は溜まるのだ、しかも目と胸の高さに、と僕は気づいたがそれはたいしたことではなかった。
僕は何気なく、再びスマホの画面を見つめた。元妻とのやりとりを開いた。
既読スルー。
そう言えば、妻はよくそれを使った。僕はなかなかそういうのが出来ない男である。まめというか、几帳面というか、時短というか、ごくありふれた感性と生活習慣で、この曲がりくねった人生をやっていこうとしているのだ。
ピッツァとピザを食べ終えると、娘はティラミスを普通に頼んだ。ウェイターが去ったタイミングで、僕は勇気を振り絞って、テーブルの上にプレゼントを置いた。
「卒業おめでとう。これパパからの記念品」
「ありがとう」
娘は微笑んだ。
#1 裏の森
#2 漱石の怒り
藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。
関連記事のまとめはこちら
http://www.neol.jp/art-2/
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