藤代冥砂 小説「はじまりの痕」 #8 夏休みよ永遠に
NeoL / 2019年9月8日 6時0分
まさか離婚するとは思わなかった。二人の子供達が手を離れたら、別居するだろうなとは想像していたが。
自分のHPで連載していた四コマ漫画が、思いがけずに話題になると、またたく間にわたしは文化人ジャンルに入ってしまった。あれは約二年前のこと。つい先日のようなものだ。
手に入れてしまうと、成功すら当然のように思えてしまうから怖い。付き合う人や、支払う額の変化すら、それ以前と比較しても、なんの違和感なく受け入れているのは、自分のことながら呆れる。わたしはこんな俗物だったのかと、脱力する思いだ。
わたしのこれまでの半生をかいつまむと、両親の雑な子育てのあおりを食って、物心ついた頃から中学を卒業するまで、長野の新島々という田舎で、夏休みの全てを過ごしていた。わたしは完全なお爺ちゃん子で、酒屋と農家を兼業していた老夫婦の色あせた生活模様がなぜか好きで、夏休みになると都会の生活を脱ぐようにして、伸び伸びと過ごしたものだ。
両親にしてみたら、面倒が省けてしてやったりだったろう。その頃の東京における受験戦争は、多くの人にとっての学業の終のゴールである就職先も景気が良く、偏差値の高い学校へ行こうとみんな躍起ではあったが、どこかのんびりとしたところがあった。社会全体にまだまだ寛容さがあったように思う。
時間を進ませると、女子大を出たわたしは、銀座の出版社で男性向けライフスタイル誌の編集をいい気な顔でこなし、なんとなくそれなりになったと自負していた。旦那は近くの大手広告代理店勤務で、それぞれの肩書きを並べると、恥ずかしいほどに業界人なのだった。実際それぞれ芸能人やスポーツ選手、ミュージシャン、アーティスト、芸人などとプライベートで交流があり、私たち夫婦の苗字をとった安部カップというゴルフコンペに参加したい人は、順番待ちのような有様であった。
こうしてわたしの半生を振り返ると、ぺらっぺらの様相であるが、実はわたしは実直なタイプで、そんなに浮かれていたわけでもなく、こんな生活いつかは終わる、いつかは終われと、思っていた。
長野の新島々でのわたしの少女時代の夏休みを描いた四コマ漫画は、お爺ちゃんとわたしとの間にあった実話だけを集めたものだ。トゲのあるユーモアを孫に突き刺すお爺ちゃんと、それを純真な子供の台詞に包んだ毒饅頭で迎え撃つわたしとの、心休まらないが爆笑できる展開が受けに受け、単行本は累計100万部を突破してしまったのだ。
もともと嫉妬深い旦那は、そんなわたしのサクセスを、あぶく銭稼ぎといって揶揄し、財布が別々な家計のバランスを見直したがっているのが本心だったが、プライドが地味に邪魔して言い出せないのをわたしは勘づいていた。世の中を動かしている棒に触れている気になっている代理店マンとしては、愛など恋などが二人の間の過去にあったことなどすっかり忘れ、マウンティングを常に気にしているのだった。
ああ、哀れな君よ。
思えば、その頃から旦那はわたしの財布にターゲットを絞っていたのかもしれない。もしそうならば、わたしの脇は甘かったし、それを逃さない旦那のしたたかさには舌を巻くより他はない。
離婚を突きつけてきた旦那には、妻の浮気という動かぬ証拠があり、わたしが仕事場として借りていた新島々のマンションに男が出入りする様子や、近所のスーパーでその男と手をつないで買い物をしている様子が写真と動画で用意されていた。
すでに人気漫画家であり編集者であるわたしには親権と全てを暴露されることを天秤にかけ、親権を旦那に渡すことに決断した。親権に固執すれば、社会的な地位は失墜することは明らかで、その場合はその後の生活の経済的保障はなくなるが、親権を譲るかわりにわたしの浮気ネタが隠され続けることで、わたしと旦那の双方にとっても失うものが最大を取らなくてすむ。わたしは苦渋の決断をしたのだ。四コマ漫画の勢いは衰えず、累計500万部も夢ではない。とっとと稼いで逃げ切る人生が見えていたのだ。
「しんしまじまでひまひま」
ヒット商品のタイトルには、名作なんてないと思う。自分でもよくこんなタイトルを付けたと思うのだが、「新島々で暇々」よりかはひらがながいいかな、というくらいの思考しかなかった。
池袋でひまひま、錦糸町でひまひま、祐天寺でひまひま、などというパクリ漫画すら出てきたのだから、たいしたものだ。
二人の娘とは、月に4回は会えるという協定であったが、蓋を開けると、いつでも会えるような状態で、形式的には離婚となり、住居も別々だったのだが、実質的には別居中の夫婦という雰囲気だった。
わたしは新島々に借りていた仕事部屋でなおも恋人と会い続けていたし、いろいろ見つめると複雑で特殊な生活なのだが、元旦那もわたしもお互いに好きなことを勝手にやって生きているという同朋感で繋がっているような気がしていた。割った財布は元には戻れないのだが、次第にそこへの怒りは薄れ、子供達とも会え、恋人もいて、生活には不自由ないというのは、稀な恵まれ方だし、こんなことが世間にばれたら、袋叩き間違いない。いったい神様は、こんなわたしに何をさせるつもりで配置したのだろう。
そんなある日、新島々の恋人が、登山ガイドの仕事を終えて、わたしの仕事部屋でシャワーを浴びてから、初めて山の写真を見せてくれた。恋人の名は、山道と書き、そのままやまみちと読む。姓は高山なので、続けると高山山道といい、こうざんさんどうと彼は自称することもある。仕事はいくつか掛け持っていて、山岳ガイドの他に、出張寿司職人、大工、陶芸家、農家などが主で、時々それらとは別の仕事をこなしていた。好きなことは、以心伝心、嫌いなことは、お喋り(本人談)で、見かけはどこにでもいるような中肉中背のあか抜けない男だった。
とにかく会話が苦手で、言語活動は野蛮だと常につぶやき、人間はもっと物静かであるべきだと続けるのが常だった。
わたしは、そこにはまったく同意できないのだったが、自分軸を持っている人の意見は尊重しているので、ああそうですかと聞いている。
言語活動は野蛮だとのたまうくせに、はまるとやたら雄弁家になり、口調は断定的だ。山道は、上高地からの登山道の写真を見せながら、自然の素晴らしさと、そこへの精神的な回帰を、昭和初期の登山家たちの言葉を引用しながら説いた。
言葉は多く、若干回りくどいだけの表現を用いながら、要約すれば、人間はもっと自然と調和して生活するべきだと、いうありきたりなものだった。
山道が熱く語る日は、決まってセックスが長くなりがちであった。その日、わたしは締切りが気になっていたので、できたらパスしたかったのだが、それはできないことも分かっていたので、できるだけさっさと済ましたいと、考え始めていた。
おそらくあと10分もしたら、彼の語る言葉も減り、熱も冷め、ふと我に帰ったかのような顔をなって、冷蔵庫からビールを2缶持ってきて乾杯する。そして、しんみりとなってから、わたしにおずおずと手を伸ばすのだ。
山道はセックスが上手だった。相性がいいというのとも違った。きっとそれは才能の一つだろう。わたしも最初はなんとなく抱かれたのだが、それが癖になっているのだと自分で認めるのにそう時間は要らなかった。
東京から3時間半の新島々のマンションは、幼い頃の安らぎを単純に求めて借りたのだが、出張寿司を何度か握ってもらっているうちに山道とそういう仲になり、なぜか色褪せないでいる。マンションの一室は、幼い頃の自分とどこかで繋がっているようで、もし東京での今のような未来がわたしになかったら、登山客の中継地で商店のレジを打っていたような気がして、それも悪くなかったなと山道の腕の中で夢想することも一度ではなかった。
小さな町を訪れる大勢の登山客の一風変わった格好を、少女だったわたしがいつまでも眺めていれたように、山道は一風変わった山の風景の一部としてわたしにしみ込んでしまったようだ。
山道は35になるまで女を3人しか知らなかった。わたしは4人目だ。彼の少なめな女性遍歴で、3人の相手が山道と幸福な時間を過ごせたのかは知らない。おそらく彼の奇特さを理解できた人はいなかったのではないか。もちろん、わたしだって面白がってはいるが、理解しているとはいえない。
君を抱いていると、山を抱いているような気がする。
山道はいつもそう言う。嬉しくもなんともない言葉だが、誰にも言われなかった言葉だから、必ず心が動いてしまう。
山があって、川がある。道があって人が歩く。スマホで撮った写真をわたしに見せながら山道は俳句でも作っているかのような口調で言葉を被せる。
いつか二人の娘たちを新島々に連れて来たい、ふとそう思いついた。かつてわたしがそうであったように、一夏をここで過ごしたら彼女たちは何を得るのだろう。山道に会わせてみたいという思いは、ふしだらな悪戯だろうか。もしくは、自然との調和のためだろうか?
#1 裏の森
#2 漱石の怒り
#3 娘との約束
#4 裸を撮られる時に、百合は
#5 モルディブの泡
#6 WALKER
#7 あの日のジャブ
藤代冥砂
1967年千葉県生まれ。被写体は、女、聖地、旅、自然をメインとし、エンターテイメントとアートの間を行き来する作風で知られる。写真集『RIDE RIDE RIDE』、『もう、家に帰ろう』、『58HIPS』など作品集多数。「新潮ムック月刊シリーズ」で第34回講談社出版文化賞写真部門受賞。昨年BOOKMARC(原宿)で開催された、東京クラブシーン、そして藤代の写真家としてのキャリア黎明期をとらえた写真集『90Nights』は多方面で注目を浴びた。小説家として「誰も死なない恋愛小説」(幻冬舎文庫)、「ドライブ」(宝島文庫)などがある。
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